Crucifixion of Jesus on a two-beamed cross, from the Sainte Bible (1866). Drawn by Gustave Doré, engraved by J. Gauchard Brunier. Public Domain.
礼拝説教の要旨です。
- 日時:2024年2月18日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「想像を超える神の愛」
- 聖書個所:ルカによる福音書23章34節1
導入
今年の2/14(水)はキリスト教のカレンダーでは「灰の水曜日(Ash Wednesday)」と呼ばれ、「四旬節 (Lent, レント)」の始まりの日でした。
とされています。
TMCでは特にこのレントを覚えることはしませんが、イースターに備えるという意味で、
となります。
という訳で、今日は
します。特にこの言葉を通して、
また
に焦点を当てて考えていきます。
想像を超える精神的苦痛
弟子たちとの最後の晩餐が終わって、イエス様が十字架刑の判決を受けるまではおよそ半日ほどの短い時間だったと考えられます(参考:ルカによる福音書22章14節—23章25節; マルコによる福音書15章25節)。
この半日という短い間に
また、裁判を受けるときにも
そして、
この短い箇所に偽善や不誠実さ、悪意や殺意、不義や自己保身といった人間の負の側面が凝縮されています。
想像を超える肉体的苦痛
さらに、イエス様は十字架に架けられる前にむち打ちの刑を受けました(マタイによる福音書27章26節)。
この当時のローマ帝国のむち打ちで使われていた「むち」には私たちが通常イメージするむちの先に動物の骨や鉄の玉が取り付けられていました。
このため、むち打ちによって皮がえぐり取られて筋肉や内臓が見えたり、骨が折れたりすることもありました。
むち打ちによる出血多量のために死に至ることさえあったようです。
と思われます(参考:ルカによる福音書23章26節)。
ことになります。
想像を超える神の愛
長い間、寝食を共にして家族のように接してきた人たちに裏切られ、見放される。
自分は何も悪いことをしていないのに訳もなく殴られ、馬鹿にされる。
自分の目の前で自分を不利な状況に貶める不正が行われているのに何も言うことができず、ただその不義・不正を受け入れる。
文字通りに肉体がえぐり取られ、多量の出血と激しい苦痛の中、意識がもうろうとしてきて頭がきちんと動かなくなる。
そのような状況で十字架にはりつけにされたイエス様のおっしゃった言葉がルカによる福音書23章34節の言葉です。
でした。
神様の救いの計画という視点から見たとき、彼らは誰一人として、自分のしていることが分かっていませんでした。
彼らはそれぞれに自分の思い・願いを実現すべく自分自身の好き勝手に行動していました。
けれども
また、自分の好き勝手に、自分の思い・願いの赴くままに行動している人たちのおかげでイエス様は私たちの想像を超える精神的・肉体的苦痛を経験されていました。
そのような状況にあると、私ならきっと何も言わずに全てを諦めてしまうか、
「何でこんなことになったんだー!もういやだー、やめてくれー、助けてくれー!」
と思いっきり絶叫するのではないかと思います。
でも
訳です。この私たちの想像をはるかに超えるイエス様の言葉に
を見ることができます。
結論
しかも
あなたが何かしたからではありません。
あなたの能力・知識・経験が他の人よりも優れているからでもありません。
なのです。この
なお、
とも言えます。
これはルカによる福音書6章27-28節でイエス様が弟子たちに教えられたことでした。
訳です(参照:ペトロの手紙一2章21-25節)。
繰り返しますが、
あなたが敵を愛するから、神様があなたを愛してくださるのではありません。
あなたを憎む者に親切にするから愛してくださるのでもありません。
あなたを呪う者を祝福するから愛してくださるのでもありません。
あなたを侮辱する者のために祈るから愛してくださるのでもありません。
ただ、
その人生は
です。
もちろん、
でもそれだからこそ
また
とは言われても、です。
イエス様のようにはなかなか人を愛することはできません。
自分をバカにする人のために祈ることもできません。
でも、そんなときは是非、
また、
ある意味、
でもあります。
私たちは誰もが人生のどこかで、イエス様を十字架に架けた人たちのように、神様・イエス様のことを全く分からず生活していたはずです。
けれども、
そしてたとえ私たちがどれほど遠く神様から離れることがあったとしても、私たちを愛し続け、私たちの罪が赦されるように祈り続けてくださっていました。
その愛の故に私たちは神様・イエス様の下に招かれ、イエス様を信じる信仰へと導かれた訳です。
たとえ何があったとしても、神様のあなたに対する愛が変わることはありません。
たとえ神様のことをどれほど遠くに感じることがあったとしても、イエス様はいつもあなたと共にいて、あなたを守り導いてくださっています。
この
参考文献および注釈
- Bock, Darrell L. Luke 9:51-24:53. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker Bk House, 1996.
- Edwards, James R. The Gospel According to Luke. Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2015.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.