Crucifixion of Jesus by Anthony van Dyck - GalleriX, Public Domain.
礼拝説教の要旨です。
- 日時:2024年3月3日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「イエスの弟子としての生き方」
- 聖書個所:ヨハネによる福音書19章26-27節1
導入
2024年のイースターは3/31(日)となっています。
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)ではこのイースターに備えるべく、先々週の日曜日からイエス様が十字架上で発した7つの言葉を基に説教をしています。
今日はこの中の三つ目となるヨハネによる福音書19章26-27節のイエス様の言葉から説教します。
特に、
を共に考えていきたいと思います。
十字架のそばにいる女性たち
ヨハネがヨハネによる福音書19章26-27節のイエス様の言葉を通して伝えたかったメッセージが何かを考えるためにはまず、その文脈を見ておく必要があります。
今日の聖書個所の直前、ヨハネによる福音書19章25節には十字架のそばに四人の女性がいたことが記されています。
これはヨハネによる福音書だけに記されている情報です。
他の三つの福音書に出て来る女性たちは、イエス様が十字架で亡くなる様子を十字架のそばではなく、遠くから見守っていたと記されています(マタイによる福音書27章55-56節;マルコによる福音書15章40-41節;ルカによる福音書23章49節)。
でも
その理由は恐らく、
ことに関係していると思われます。
十字架のそばにいる弟子たちへの言葉
ヨハネによる福音書19章26節にイエス様はご自分の母マリアとそのそばにいる「愛する弟子」とをご覧になったとあります。
ここに突然出て来る「愛する弟子」というのは、ヨハネの福音書の中に何回か登場してくる人物で、恐らくは福音書の作者ヨハネ自身だと思われます(参考:ヨハネによる福音書13章23節; 21章7, 20節)。
ヨハネによる福音書19章26節で少し不思議な表現は、イエス様が母マリアに用いた「女よ」という呼びかけの言葉です。
実は、ここで「女よ」と訳されているギリシア語の言葉は、男性が女性に対して敬意をもって呼びかけるときに使う言葉で(参考:ヨハネによる福音書4章21節; 8章10節; 20章13節;比較:20章15節)、
従って、ここで
と考えることができます(比較:ヨハネによる福音書2章4節)。
弟子としての生き方を示す言葉
イエス様が十字架の上からマリアに対して先生(もしくは救い主)とその弟子という関係の中で語られたとすれば、
だということになります。
そして、マリアを自分の家に引き取ったというヨハネの行動は、
と理解できます。
事実、イエス様は十字架に架けられる前夜の最後の晩餐の席で弟子たちに対して、自分が間もなくこの世からいなくなることをほのめかしながら、
という戒めを与えていました(ヨハネによる福音書13章33-35節)。
十字架の上で苦しみながらもなお、弟子たちのこと気にかけ、愛し抜こうとされているイエス様の姿を目の当たりにして、ヨハネはきっとこのイエス様の言葉の真意を理解したのではないでしょうか。
そして
のだと思います。
結論
4つの福音書の作者の中で
その理由の一つは恐らく、その女性たちの内の一人であった
だと思われます。
なお、このときのイエス様の母マリアに対する言葉はマリアの息子としての言葉というよりも、彼女の救い主(先生)としての言葉だと考えられます。
訳です。では、
それは
です。
マリアを自分の家に引き取るヨハネの中にはイエス様が愛してくださったように互いに愛し合おうとするイエス様の弟子の姿が見て取れます。
ここでカギとなるのは「イエス様が愛してくださったように」という文言です。
あなたが神様を愛するから神様があなたを愛してくださるのではありません。
あなたが何かに優れているから、良い行いをしたから、神様があなたを愛してくださるのでもありません。
そして、
これが
です(参考:ヨハネの手紙一4章10節)。
それと同じように、
ことが求められています。
それが、
ということです。
ただ、ここで「イエス様のように愛する」と聞くと、命を懸けて誰かを助けたり、持っているもの全てを投げ打って誰かのために何かをしたりといった途方もなく大きなことを思い浮かべるかもしれません。
しかし、そうした大きな犠牲を伴うことはイエス様のように愛することの一つのかたちに過ぎません。
むしろ
と言えます。
「善いサマリア人」のたとえ(ルカによる福音書10章25-37節)にあるように、
だからです。その意味で、イエス様のように愛することの中には例えば、
お腹が空いている人と食べ物を分け合ったり、
病気の人の看病をしたり、お見舞いに行ったり
することが含まれています(参考:マタイによる福音書25章34-36節)。
昨今は人間関係が以前よりも希薄になってきているように感じます。
全てのコミュニケーションが物理的に会うことなく、スマホやパソコンで終わってしまうことが多々あります。
そんな中で損得勘定を抜きにして誰かのために何かをしようとすると
「変わっている」
「気持ち悪い」
「下心があるに違いない」
「偽善者だ」
と揶揄されることがあるかもしれません。
下手をするとストーカーと間違われて、捕まることもあるかもしれません。
そのような苦い体験をすると、それ以降、
かもしれません。
でも、それこそ
です。
実際、あなたが神様の望む良い行いをしようとするときにはしばしば否定的なささやきが聞こえることがあると思います。
それは例えば
「お前は忙しいんだ。そんなことをする暇はないだろう」
「そんなことをしたって誰も喜ばない、むしろ嫌われるだけだ」
「そうやって良い子ぶって、実際はその人のためじゃなく、自分のためにやっているんだろう」
といったささやきです。
でも、こうしたささやきはまず間違いなく、神様の働きを邪魔しようとする悪魔・悪霊のささやきだと言えます。
そのような
イエス様ほど愛に満ちたお方はこの世にいません。
しかしながら、
むしろ
そして、イエス様を憎み、殺そうと企む人々によって、イエス様は無実の罪で十字架に架けられました(参考:ヨハネによる福音書11章45-53節; 19章6, 15-16節)。
それと同じく、
むしろ、イエス様のように愛そうとする人を世は憎むとイエス様はおっしゃいます(ヨハネによる福音書17章14節)。
しかも、悪魔・悪霊といった「悪い者」があの手この手であなたを妨害しようとしてきます。
でも、
参考文献および注釈
- Burge, Gary M. John. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2000.
- Carson, D. A. The Gospel according to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
- Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.
- Michaels, J Ramsey. The Gospel of John. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2010.