「イエスに聞き従う」:2026年8月30日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2026年8月30日(日)
  • 場所:さいたま国際キリスト教会
  • 説教タイトル・テーマ:「イエスに聞き従う」
  • 聖書個所:ルカによる福音書9章43b-50節1
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導入

今日の聖書個所ルカによる福音書9章43b-50節には、三つの異なる話が出て来ています。

これら三つの話に共通する一つのテーマは

神様の思い・考えは私たち人間の思い・考えとは大きく異なる

というものです。

今日はこの聖書個所を通して、まず神様の思い・考えは私たち人間の思い・考えとは大きく異なることを改めて思い起こし、その上で、

私たちクリスチャンはどう生きるべきか?

について考えていきたいと思います。

神の救い

大勢の人がイエス様のなさっていた数多くの奇跡や教えに驚いていた最中、

イエス様は、ご自身が人々の手に渡されようとしている

と弟子たちに告げられます(ルカによる福音書9章43b-44節)。これは、

イエス様が人々の手に渡され、殺されようとしている

ことを弟子たちに伝えようとしている言葉です(参考:ルカによる福音書9章22節)。

ところが、弟子たちはイエス様がおっしゃっていることが理解できません(45節)。

弟子たちはイエス様を「メシア」だと思っていました(ルカによる福音書9章20節)。

しかしながら、彼らの考える「メシア」は、彼らをローマ帝国から解放し、ユダヤ人たちの王国を建国してくれる政治的指導者、王様を意味していました。

その新しい王国の王となるべきお方が人々の手に渡されて殺されてしまうというのは、弟子たちの思い・考えからすれば、到底あり得ない話でした。

けれども、

メシアが十字架に架かって死んで復活することこそが、神様の救いの計画の成就には必要不可欠なこと

でした。ここに、私たち人間の思い・考えと神様の思い・考えとが大きく異なることがはっきりと示されています

人の価値

弟子たちにとって、イエス様はあくまでも新しいユダヤの王国の王様になる人物でした。

このため、

イエス様の次の座を誰が占めるのか

というのは弟子たちにとって非常に重要なことだったようです(ルカによる福音書9章46節;参照:ルカによる福音書22章24節)。

そんな彼らの心の内を見抜いた

イエス様は一人の子供をご自分の傍に立たせます(9章47節)。

現代とは異なり、今から2000年以上前は世界中どこにあっても、

子供というのは社会的に非常に立場が低く、厄介者と見られていました。

イエス様はそんな子供をご自分の傍にお呼びになり、この

子供を受け入れる者は自分(イエス様)を受け入れる

のだとおっしゃいました(48節)。つまり、

子供よりも自分たちを低い立場に置き、子供の方が偉い存在であるかのように敬意をもって接しなさい

とイエス様は勧めている訳です。そして、

皆の中で最もへりくだって周りの人に仕えようとする人、即ち、「皆の中でいちばん小さい者」こそが偉い

のだとイエス様はおっしゃいます。ここに「人の価値(誰が偉いか)」について、人間の思い・考えとは大きく異なる神様の思い・考えがはっきりと表されています。

神の家族

ルカによる福音書9章49節でヨハネは、

自分たちと一緒にイエス様につき従ってこない人たちがイエス様の名前を使って悪霊を追い出すのをやめさせた

と言っています。

このヨハネの行動をみて、親近感を覚える人は少なくないのではないかと思います。

事実、ヨハネのように、

自分たちのグループ内の人たちのことは受け入れても、自分たちのグループ外の人たちのことは認めないというのは、誰もが少なからずやっている

ことだと思います。

そのような私たち人間の思い・考えに対して、

神様・イエス様の御名があがめられるような行動(例:イエス様の名前を使って悪霊を追い出すこと;比較:使徒言行録3章7-8節)については、その相手が自分と異なる考えを持っているとしても、その行動を受け入れなさい

とイエス様はおっしゃいます (ルカによる福音書9章50節;比較:ルカ11:23)。

たとえ自分たちの思い・考えと違うところがあったとしても、その人が

イエス様を信じ、自分のためではなく神様のために生きている・生きようとしているならば、その人は「神の家族(真の味方)」

です(比較:エフェソの信徒への手紙2章11-22節)。

誰が本当の味方(神の家族)かを判断する基準は、その人が自分のグループに属しているかではありません。

その人がイエス様を心から信じ、自分中心ではなく神様中心の生き方をしているか

どうかです。

結論

今日は

神様の思い・考えは私たち人間の思い・考えとは大きく異なる

ということを三つの話を通して再確認してきました。

一つ目の話では「神の救い」について、

二つ目の話では「人の価値(誰が偉いか)」について、

最後の三つ目の話では「神の家族(誰が味方か)」について、

神様の思い・考えは私たち人間の思い・考えとは大きく異なることが記されていました。

実を言うと、私たち人間の思い・考えと神様の思い・考えとが異なることが記されているのは今日の聖書個所だけではありません。

詳細は省きますが、今日の聖書個所の直前(ルカ9:37-43a)と直後(ルカ9:51-56)の話においてもまた、弟子たちの思い・考えがイエス様の思い・考えと大きく異なっていることが記されています。

つまり、ルカによる福音書の作者のルカはルカによる福音書9章37-56節において、

弟子たちの失敗談とも言える5つの話を通して、神様の思い・考えが私たち人間の思い・考えとは大きく異なることを繰り返し記している

ことになります。でも、

なぜルカはこの個所で、神様の思い・考えが私たち人間の思い・考えとは大きく異なることを弟子たちの失敗談を通して伝えようとしているのでしょうか?

その答えのヒントがルカによる福音書9章37-56節の直前、ルカによる福音書9章35節に記されています。

そこでは、神様が、

イエス様は「私の子」であり、「私の選んだ者」であるから、イエス様に聞きなさい

と弟子たちに語っておられます。

この神様の言葉と9章37-56節における5つの話を通して、

イエス様の弟子たちでさえ、その思い・考えは神様・イエス様の思い・考えと大きく異なっているのだから、イエス様に従おうとする者は皆、イエス様の言葉に聞き従う必要がある

ということを、ルカは後世に生きる私たちに伝えようとしていると理解できます。

言うなれば、

神様の思い・考えが分からないときこそ、イエス様の言葉に耳を傾けることが大事

だと言えます。

そしてイエス様の言葉に耳を傾けるためには、日曜日の礼拝だけでなく、日々の祈りや聖書勉強も必要不可欠です。

とはいえ、

いくら説教の言葉に耳を傾けても、

いくら祈っても、

いくら聖書を読んでも、

神様の思い・考えが分からない

ことがあります。

また、

神様の思い・考えが分かったとしても、

その神様の思い・考え通りに生きることができない

こともあります。

そんなとき、忘れてはならないことは、

神様の愛は何があっても変わらない

ということです。

神様があなたを愛してくださるのは、

あなたがイエス様に耳を傾けるからではありません。

イエス様の言うことを直ぐに理解して、イエス様の望む生活ができるからでもありません。

神様は、たとえあなたが神様の思い・考えを分かろうともせず、自分勝手に生きることがあったとしても、あなたを愛し続けてくださっています。

神様の思い・考えを知っているにもかかわらず、その神様の思い・考えの通りに生きることができないことがあったとしても、神様のあなたに対する愛は変わりません。

その

神様の人知を超えた無条件の愛がイエス様の十字架に表わされています。
あなたはそのままで神様に愛され、受け入れられ、必要とされています。

また、

祈っても、

祈っても、

神様の思い・考えが分からず

途方に暮れてしまう

ことがあります。

でも

神様は、そんなあなたを見捨てるようなお方ではありません。

実際問題、

神様の思い・考えというのは、その時、その場所ではなかなか分からないことが多い

です。それでも、

後から振り返ってみると、確かに神様の御手が至る所で働かれていた

ことに気付かされます。そして、結局のところ、

全てが神様の思い・考えの下で動いているという結論に達する

ことになります(参考:ローマの信徒への手紙8章28節)。

確かなことは、

神様に任せておけば間違いはない

ということ。そして、

神様は神様のタイミングと神様の方法で、いつの日か必ず神様の思い・考えを実現され、神様の思い・考えを誰の目にも明らかにしてくださる

ということです。これは神様のもつ絶対的な主権の成せる業です。そして、

イエス様の十字架にはその神様の絶対的な主権もまた表されています。

神様の思い・考えが分かっても、分からなくても、私たちに求められていることは、

イエス様の十字架を見上げて、イエス様に聞き従う

ことです。そして、

イエス様の十字架に表わされている、神様の無条件の愛と絶対的な主権を覚え、今自分にできること、任されていることに忠実に生きる

ことです。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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