礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年10月9日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神にとって特別な存在」
- 聖書個所:出エジプト記20章13節1
導入
今日の説教は「十戒」の6つ目、「殺してはならない」についてです。
実は、聖書を読んでいくと意外に人が人を殺す場面が出てきます。
しかも、神様自身がモーセを用いて罪を犯したイスラエル民族を殺したり(例:出エジプト記32章30節)、イスラエル民族に他の民族を殺すように命じたり(例:申命記7章1-2節)する箇所もあります。
また、律法の中にも罪の罰として死刑が定められているものが少なからず存在します(例:出エジプト記21章12-14, 15, 16, 17節)。
こうしたことから、
ことが分かります。
今日は
について、共に考えたいと思います。
神に属する人の命
出エジプト記20章13節の表現はヘブライ語では二つの単語から成り立っています。
一つ目は「-ない」「-てはならない」という否定の意味を持つ言葉(助動詞)。
二つ目は「殺す」という意味をもつ言葉(動詞)です。
ここの「殺す」という意味の言葉は、聖書において、動物ではなく人間の命を奪うときに用いられています。
また、意図的に(殺意を持って)人を殺したとき(列王記上21章19節)だけでなく、不慮の事故で人を殺してしまったとき(申命記4章42節)にも用いられています。
ただし、この言葉は神様の命じる戦いによって他の民族を殺すときには使われていません。
また、罪の罰として人を殺す(死刑に処す)ときにも、一つの例外(民数記35章30節)を除いて、使われていません。
このことから
ことが分かります。
それにしても、
その理由の一つは、
と言えます。コロサイの信徒への手紙1章15-17節には、
と記されています。
ことが分かります。
神にとって特別な人の命
人間も含めたこの世の生き物の命は全て神様に属するものですが、その中でも
だとも聖書は語ります。人が神様にとって特別な存在であるのは、人が「神様のかたち」に造られているからです。
人は皆、創造主である神様のかたちに造られた非常に特別な存在、だから
と聖書は語ります(参照:創世記9章5-6節)。
この「神のかたちに造られた」というのはかなり曖昧な表現だと思います。
けれども、一つはっきりしているのは
ということです。それほどまでに人間は神様にとって特別な存在なのです。そして、その
それは
です。
神に愛されている人の命
であると聖書は語ります(ローマの信徒への手紙6章23節)。
しかし、罪を犯した結果が全て「死」であるならば、人間は直ぐに死に絶えてしまいます。
そこで登場するのが動物のいけにえです。
という訳です。特に、聖書では生き物の命はその血にあると考えますので、
となります(参照:レビ記17章11節)。
のものでした(参照:ヘブライ人への手紙9章12節)。
神様にとって人間は非常に特別な存在で、その命が失われることを神様は全く望んでおられなかった。
だからこそ、
訳です。
どんなかたち、またどんな理由であれ、
と言っても過言ではありません。
結論
その理由の一つは、
だからです。
神様は天地万物の創造主であって、絶対的な主権をもってその全てを治めておられます。
被造物に過ぎない私たち人間が身勝手に扱ってよいものは何一つありません。
また、
それほどまでに
な訳です。
故意であれ、事故であれ、神様の許可なく人が人を殺すことを神様は望んでおられません。
なお、
私たちは皆、その罪の故に、自らの命をもってその罪を償う必要がありました。
けれども、私たちの命が失われることを望んでおられない神様は、私たちの身代わりとして、その独り子イエス様を地上に遣わされました。
そしてイエス様は自らの血(命)をもって、私たちのための永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。
神様が「殺してはならない」という戒めをお与えになったのは、
からです。
「人を殺してはならない」というのは、聖書を引くまでもなく、誰もが認める「当たり前」のことと言えると思います。
でも、
その原因はもちろん、人間の罪深さにあると言えます。しかし、その中でも特に、誰もが
ことにあるように思います。
場合が多いように思うからです。
ちなみにイエス様は、私たちが相手に対して何らかのアクションを起こす以前に、
のだともおっしゃっています(参考:マタイによる福音書5章21-26, 27-30節)。
「自分は正しい」と思いたくなってしまうとき、
必要があるように思います。
物事の全ての背景や事実関係を完全に知り得ることは誰にもできません。
限られた情報のもとで、限られた知識・経験・知性を用いて判断するしかありません。
もちろん、正しい側面もあるでしょう。
しかし、それと同時に正しくない・誤った側面ももったのが私たち人間です。
自分は正しくて他の人は間違っていると裁く前に、
必要があります(参照:マタイによる福音書7章1-5節)。
とはいえ、時には、どんなにへりくだって考えてみても、やはり自分に悪いところはないと思える場合もあるかもしれません。
でも、たとえそうだとしても、仕返しとして、その相手に何でもしてよいわけではありません。むしろ、
と聖書は語ります(参照:ローマの信徒への手紙12章17-21節)。
お方です。その
ことが求められています。
と色々と書きましたが、人を裁く前に自分を省みること、また自分を攻撃してくる人を愛する(善をもって悪に勝つ)ことは決して簡単なことではありません。
むしろ、ついつい自分のことを棚に上げて他人を批判・非難してみたり、自分を攻撃してくる人に仕返しを企てたりしてしまうのが私たち弱い人間です。
でも、
なのです。まずは
そして、
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.