「それでも、主は共におられる」:2025年4月6日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

皆さんは

「神様・主がいつも共にいてくださる」と聞くと、どのような印象をもたれるでしょうか?

聖書には色々なところで

神様・主が共におられる

というメッセージが出てきます(参考:マタイによる福音書28章20節;ローマ8章9-11節;コリントの信徒への手紙一6章19節)。

しかしながら、

世の中は様々な問題で溢れています。

皆さんの中にも今現在、非常な苦しみ・悲しみ・痛みを経験されている方がいらっしゃるかもしれません。

そのため、

神様は本当にいつも私と共にいてくださっているのだろうか…

とか、

きっと神様は私をお見捨てになったんだ…

と思いたくなる・思ってしまう方がいらっしゃるかもしれません。

今日の聖書個所に出てくる

ヨセフもまた、理不尽とも言えるような苦しみ・悲しみ・痛みを経験していました。
神様がヨセフと共におられたと記されているにも関わらず

です(創世記39章2, 3, 21, 23節)。でも

神様は確かに、いついかなるときもヨセフと共におられ、彼を通して御自分の計画を成していかれました。

今日の個所を通して、

神様はどのようなお方か?

また

「神様がいつも共にいてくださる」とはどういう意味なのか?

をみていきたいと思います。

理不尽に満ちた世の中

さて、創世記40章全体に出てくる主な登場人物はヨセフを除くと二人です。

二人ともエジプトのファラオに仕える宮廷の役人で、一人は献酌官長もう一人は料理長でした(創世記40章1-2節)。

彼らは

ファラオに過ちを犯したため、親衛隊長ポティファルの屋敷にあった監獄に入れられます(1-3節)。

ここで少しヨセフの状況を確認しておきます。

ヨセフは17歳のとき、兄たちに売り飛ばされエジプトで奴隷生活を始めました(創世記37章)。

それまで何不自由ない生活を送っていたヨセフが突然、言葉も通じない異国の地で奴隷としての生活を余儀なくされるようになった訳です。

ヨセフにしてみれば、理不尽極まりない状況です。

彼がそのとき感じた苦しみ・悲しみ・痛みは相当のものだったと思います。

でも、このような苦しみ・悲しみ・痛みは別にヨセフに限った話ではないと思います。

ある意味、時と場所を超えて、

この世の中は理不尽に満ちている

と言っても過言ではありません。

理不尽を共にする神

神様はそのように理不尽極まりない状況にあったヨセフと共におられた

と聖書は記します(創世記39章2節)。

そしてエジプトでヨセフは売り飛ばされた先の家の主人ポティファルには気に入られました(39章4節)。

でも、ポティファルの妻の誘いを断ったがため、

ヨセフは濡れ衣を着せられて牢獄生活を強いられる

ようになります。しかし、ここでも

神様はそんな理不尽な状況にあったヨセフと共におられた

と聖書は記します(39章21節)。

そしてヨセフは牢獄内の全ての囚人の管理を任されるようになりました。

ところが、

神様が共におられたにもかかわらず、無実の罪で牢獄に入れられたヨセフは牢獄から出ることができません。

実際、17歳のときにエジプトに売られてきたヨセフは28歳になるまでの

11年もの間、奴隷として、また囚人として、理不尽極まりない状況を耐え忍んでいました(参考:創世記41章1, 46節)。
神様もまた、ヨセフを見捨てるどころか、ヨセフと一緒にその理不尽な状況を共にしておられました。

そして

ヨセフは、そんな理不尽極まりない状況にあっても神様を信じ信頼し、彼に任された役割に誠実に励んでいた

ようです。

理不尽をも用いる神

創世記40章の話に戻ると、ポティファルの屋敷の監獄に投獄されてきた献酌官長と料理長の二人は、不思議な夢を見ます(7-8節)。

神様の助けによって、ヨセフはそんな彼らの夢を見事に解き明かします(9-19節)。

そして、献酌官の夢を解き明かした後でヨセフは彼にお願いしています(14-15節)。

この創世記40章14-15節の言葉から、

ヨセフはこのときの自分の状況に全く満足していない

ことが分かります。

むしろ、ヨセフは自分がどれほど理不尽極まりない状況にあるかを訴えかけています。

ところが、です。

しばらくして、

ヨセフが解き明かした夢の通りの出来事が起きたにも関わらず、ファラオからはもちろん献酌官長からも何の知らせもありません。

様々な思いに駆られていたであろうヨセフを尻目に、二年の月日が流れたと聖書は記します(41章1節)。

そして二年が経って、ようやく牢獄から出ることができたヨセフは、今度は、ファラオが見た夢を見事に解き明かし、ファラオに次ぐエジプトでNo.2の地位に就くことになります(41章40節)。

その後、エジプトでは七年の豊作と七年の飢饉が続き、その結果、ヨセフの家族が食料を求めてエジプトを訪れるようになる、と話は続いていきます。

このように、

理不尽な状況に置かれていたヨセフを通して、神様の計画が着実に実現されていく

訳です。

神様は世の中の理不尽な状況をも用いて、そのご計画を成し遂げていかれるお方

であることが分かります。

結論

ヨセフの時代に限らず、

この世の中は理不尽な出来事で満ちている

と言っても過言ではありません。

皆さんの中でも今現在、そのような理不尽な苦しみ・悲しみ・痛みを経験されている方がいらっしゃるかもしれません。

けれども、どれほど理不尽だと感じる状況に置かれることがあったとしても、

神様は私たちと一緒にその理不尽な状況を共にしてくださっています。

そして、

神様はその理不尽な状況をも用いてご自分の計画を成していかれるお方

です。

いついかなるときも、どんなことがあったとしても、神様が私たちを見捨てることはありません。
たとえ私たちが気付かない・感じないことがあったとしても、神様は絶えず私たちを守り導いてくださっています。

この世から苦しみや悲しみ、痛みがなくなることは、残念ながら、あり得ません。

三位一体なる神様がいつも共にいてくださるとしても、苦しみ・悲しみ・痛みを経験しなくなる訳ではありません。

たとえ今、あなたの人生において神様が働いておられないように思えたとしても、

神様は今もなお働いておられます。

たとえ神様に見捨てられているように感じたとしても、

神様は決してあなたを見捨てるようなお方ではありません。

子なる神イエス様はいつもあなたと共にいて、あなたと一緒にその理不尽な状況を共にしてくださっています。

そして、

いつか必ず、その理不尽な状況さえも神様のご計画の一部として用いられていく日がやってきます。

と言われても、なかなか信じきれない、納得できない方がいらっしゃるかもしれません。

そんな方は、

イエス様の十字架を見上げてみてください。
イエス様の十字架にはこの世の理不尽の全てが表されている

と言えます。

イエス様ほど神様の前に正しく歩まれた方は他にありません。

いついかなるときも神様に忠実に、罪一つ犯すことなくその生涯を歩まれた方がイエス様です。

この世の中の価値観からすれば、その行いに応じて、これ以上ない祝福を神様から受けて然るべき存在です。

しかし実際には、

イエス様はこの世の誰からも理解されず、

大切に思っていた人からは裏切られ、

見捨てられ、

十字架の上で肉体的に極限の苦痛を味わいながら、

あらゆる人たちから罵られ、

馬鹿にされ、

嘲られて

息を引き取られました。

これ以上理不尽な状況があるでしょうか。

しかし、このように

理不尽極まりない状況にあっても、神様は絶えずイエス様と共におられました。

しかも、

神様はこのような理不尽な状況をも用いて、全人類の救いという御業を成し遂げられました。

その意味で、イエス様の十字架には、この世の理不尽の全てが表されているだけでなく、

この世の理不尽を共にしてくださる神様の愛と憐れみ

そして、

この世の理不尽をも用いて御業を成していかれる神様の絶対的な主権

が表されている

とも言えます。

この世において理不尽な苦しみ・悲しみ・痛みを経験するとき、

イエス様の十字架を見上げてください。

そこに表わされている神様の愛と憐れみ、そして絶対的な主権を思い起こしてください。

たとえどんなことがあったとしても、

これ以上耐えられないほどの苦しみ・悲しみ・痛みを経験することがあったとしても、

それでも、主はあなたと共におられます。

神様があなたを見捨てることは決してありません。

神様・イエス様はいついかなるときもあなたと共にいて、あなたを絶えず守り導いてくださっています(マタイによる福音書28章20節)。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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