先日、このブログでも紹介したジョン・ウォルトン(John Walton)教授の来日記念講演に出席してきました(ジョン・ウォルトン教授はWheaton Collegeの旧約聖書学の教授)。
この記念講演はウォルトン教授の著書の一つ“The Lost World of Genesis One”の日本語訳『創世記1章の再発見~古代の世界観で聖書を読む~』が出版されることを記念して開催されたものです。従って、その講演の内容は彼の著作の内容に沿ったものでした。
私は5/14と5/15の講演に出席しましたが、講演のタイトルはそれぞれ以下の通りでした。
- 5/14:創世記1章は何を語っているのか?~機能的コスモロジーの再発見~
- 5/15:創世記2章は何を語っているのか?~古代の世界観で人類の起源を考える~
ここで、その内容をかいつまんで説明するつもりはありませんが、ご興味のある方は以下の関連書籍をご覧ください。
創世記1章の再発見 古代の世界観で聖書を読む (いのちのことば社)
この記事では講演を聞いて自分の心に残ったこと、共感を覚えたことを書き記そうと思います。特に今回は、講演でもしばしば話に挙げられていた「聖書と科学の関係」について、「聖書(創世記1章と2章)の語る天地創造は科学的説明と矛盾しているのか?」をテーマに話を進めようと思います。
話の流れは以下の通り。
「文化の流れ」の違い:古代中近東と近現代先進諸国
まず、講演の中でウォルトン教授が強調していたことの一つは「文化の流れ(Cultural River)」というもの。これは別に難しい考え方ではなく、ただ単純に、
ということです。
このことは聖書に関しても例外なくあてはまります。つまり、
ということ。
ウォルトン教授の言葉を借りるならば(うろ覚えですが)、以下のように言えます。
“The Bible didn’t borrow the Ancient Near Eastern (ANE) culture [the culture in which the biblical authors lived], but rather the Bible is embedded in it.”
「(聖書記者が暮らした)古代中近東の文化を聖書が借用しているのではなく、古代中近東の文化は聖書に埋め込まれている。」(私訳)
厄介なのは、私たちはしばしばこの「文化の流れ」の影響を忘れてしまうということ。
そして、知らないうちに(ほとんど無意識です)、自分たちの文化の「常識」や「先入観」をもって、聖書を読もうとしてしまいます。
その結果、
といった疑問が湧いてくる訳です。というのも、近現代の先進諸国にあって、私たちの生活は科学技術の影響を多分に受けているからです。
が、しかし、です。
例えば、彼らは地動説ではなく天動説を信じていましたし、地球が球体だとは夢にも思っていなかった訳です。
しかし、神様は聖書を通して、彼らの科学的な知識の誤りを正そうとはなさらなかったのです。あくまでも、
のです。
言い方を変えれば、聖書は科学的な主張はしていないとも言えます。聖書には「科学的知識」よりも他に人々に伝えたいことがあったのです。
では、
その答えを知るためには、聖書が書かれた当時の人々がどういうことに関心をもっていたのか、彼らが「知りたがっていたことは何か?」を知る必要があります。
そのためには・・・、そう、
彼らが生きた古代中近東の文化を知る必要があります。
古代中近東の文化の流れ
幸いなことに、古代中近東の文化を知る手掛かりは今日まで残されています。
今日まで残されている古代中近東の文化を知る手掛かりとは、バビロニア文明が生まれたとされるメソポタミア地方およびエジプト文明発祥の地エジプトの文献です。
ここで古代中近東の文化的特徴の全て書くことはできません。が、「天地創造」の話に限ると、古代中近東の人々が天地創造の話を通して知りたかった事柄は
それは即ち、
ということだったようです。
裏を返せば、
古代中近東の天地万物の話は聖書も含め「天地万物のアイデンティティ(Cosmic Identity)」について教えるもの
だったと言えます。
つまり、聖書が関心あるのは「天地万物がどのようにしてできたか?何によってできたか?」といった科学的な問いではなく、「天地万物は何のために造られたのか?」といった存在論的な問いだということが分かります。
聖書(古代中近東)と科学(近現代先進諸国)の関係
よく「宗教と科学は矛盾している」とか「宗教と科学は相容れない」と言われます。
しかし、「矛盾」や「相容れない」という表現は、ある事柄・問題提起に対して、二つの相対立する主張・提案がなされたときに用いられるものです。
例えば、「明日の天気は?」と聞かれて、一方が「雨になるでしょう」と答え、他方が「晴れになるに違いない」と言えば、この両者の主張は「相容れない」ものです。
天地創造の話でいえば、「天地万物がどのようにしてできたか?」または「人類はどのようにして誕生したか?」という問いかけ(問題提起)が考えられます。
前者の「天地万物がどのようにしてできたか?」という問いに対して、聖書(創世記1章)は「神が天地万物を6日で造ったと語っている」と答えるかもしれません。
また、後者の「人類はどのようにして誕生したか?」という問いに対して、聖書(創世記2章7節)は「神が大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込んだ結果、人は生きるものとなったと説明している」と答えるかもしれません。
そして、
と結論付けたくなります。
が、しかし、です。
これまで見てきたように、
のです。
聖書が「天地万物がどのようにしてできたか?」に対して回答を与えてくれるかのように「錯覚」してしまうのは、私たちが私たちの生きる近現代先進諸国の「文化」を聖書に押し付けてしまっているから。
聖書が書かれた当時の古代中近東の文化を完全に無視して、私たちの文化の枠組みの中で聖書を(強引に)理解しようとしてしまっているからだと言えます。
先にも書きましたが、聖書は当時の人々の科学的な知識の誤りを正そうとはしていませんし、科学的な主張もしていないのです。
むしろ、
のです。
反対に、「私たち人類は何のために存在しているのか?」「なぜ生きているのか?」といった存在論的な問いかけに対して、科学は意味のある答えを与えてくれません。1
つまり、聖書(宗教)と科学はそれぞれが対象としている問題の領域が異なると言えます。対象としている領域が異なるという意味において、そもそものところ、聖書と科学は「矛盾」も「対立」もしていないとも言えるでしょう。両者は住んでいる世界が違うのです。
まとめ
ジョン・ウォルトン(John Walton)教授の講演を聞いて改めて感じたことは、聖書を正しく理解するためには、聖書が書かれた当時の文化的背景を理解する必要があるということ。
その当時の文化的背景を理解することによって、当時の人々の関心事が分かりますし、「聖書が答えようとしている当時の人々の問題が何か」も分かるようになります。
天地創造の話(創世記1章と2章)でいうと、聖書が答えようとしている古代中近東の人々の問いというのは、「天地万物がどのようにしてできたか?何によってできたか?」といった科学的な問いではないことが分かりました。
これはつまり、聖書は科学的な主張や仮説を提示している書物ではないということ。
むしろ、
だと言えます。
ちなみに、このような存在論的な問いかけは、時代や場所を超えて、全ての人が一度は抱くであろう根本的な問いかけだと思います。従って、
だということができるかもしれません。
総じて、そもそものところ、聖書の主張と科学の主張が対立したり、矛盾したり、相容れなかったりすることは有り得ないと言えると思います。
言うなれば、
ということ。
そのことを踏まえた上で、聖書が一体何を語ろうとしているのかを理解しようとすることが非常に大事だと言えるでしょう。
参考文献および注釈
- Walton, John H. The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate. Downers Grove, Ill.: IVP Academic, 2009.
- ジョン・H・ウォルトン. 『創世記1章の再発見 古代の世界観で聖書を読む』. Edited by 聖契神学校. Translated by 原雅幸. いのちのことば社, 2018年.