礼拝説教の要旨です。
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- 日時:2018年10月28日(日)
- 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「神の使命」
- 聖書個所:出エジプト記3章1-12節
1モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 2そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 3モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 6神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)96-97頁1
導入
「使命」または「召命」と聞くと非常に難しくて特別な任務という印象を受けます。しかし、「使命」「召命」という言葉を「神様が私たちに望んでいること」と理解するならば、神様は私たち一人一人に使命をお与えになっていると言えます。事実、神様が私たち一人一人に望んでいること(使命)の一つは、
今日は、神様がモーセに使命を与えた場面を通して、神様が与える使命について一緒に考えたいと思います。
使命を与える神
このモーセという人物は生まれてすぐに殺されようとするところをエジプトの王女に助けられ、王女の子として育てられます(出エジプト記2章1-10節)。
モーセは40歳のとき、重労働を課され苦しんでいたイスラエル人を助けようとしてエジプト人を殺してしまいます。その殺人の罪から逃れるため、彼はエジプトを離れミディアンと呼ばれる地方(シナイ半島の中央部から北部およびアラビア半島の北西部)に移り住みます(2章11-22節)。
それから40年の月日が流れ80歳になったある日、モーセは神様と出会うのです。
そのときモーセは神様に出会うことを全く予想していなかったと思います。そんな彼に神様が命じたことは、エジプトのファラオのもとに行って、奴隷となっているイスラエル人を連れ出すこと(3章7-10節)。
そういったモーセの心の声が聞こえてきそうです。が、神様はモーセに続けておっしゃるのです。
主導権をもつ神
この一連の出来事から、神様がお与えになる使命について何が分かるでしょうか。まず一つ目は、
ということ。
今日の箇所では、神様の方からモーセに語りかけました。モーセの方から祈り求めて神様から使命を与えられた訳ではありません。
同じように私たちの生活においても主導権をもっているのは神様です。私たちの方から「これがしたい、あれがしたい、神様お願いします!」と祈ったとしても、神様の御心でない祈りが答えられることはありません(参考:ヨハネの手紙一5章14節)。
むしろ、神様が私たちに望まれること(使命)というのは、「神様、そうきましたか。それだけは避けたかったんですが…」と言ってしまいたくなる内容のものが多いと思います。
弱い人を用いる神
神様がお与えになる使命について分かることの二つ目。それは、
ということ。
モーセが自分の正義に燃えて過ちを犯して挫折を経験したとき、自分の無力さ・弱さを思い知り心砕かれた状態にあったとき、神様は恵みによってモーセを選び、彼に大きな使命をお与えになりました。
同様に、私たちが人生において挫折や失敗を経験したとき、苦しみや悲しみの中にあって生きる希望さえ失おうとしているとき、神様の方から私たちに目を留めて、私たちを窮地から救ってくださいます。
もちろん、挫折や失敗は辛いモノです。しかし、挫折や失敗を経験して初めて、失敗した人の心の痛みが分かるようになります。何もかも失ってみて初めて、弱い人の立場や気持ちが分かるようになります。
共に使命を果たす神
神様がお与えになる使命について三つ目に分かることは、
ということ。神様はモーセに使命を与えた後で「あとは任せた、モーセ」と突き放すどころか、「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)とおっしゃっています。
私たちの場合も同じです。神様は私たちに「神を愛し、人を愛する」という使命を与えて、後は高みの見物しているようなお方ではありません。神御自身が人となってこの世に来られ、死に至るまで従順に神と人に対する愛を示して下さいました。ご自分の命を十字架の上に捨てられ、私たちを滅びから救ってくださったのです(比較:ヨハネによる福音書15章13節)。
また、死んで終わりではなく、よみがえって、今も生きて私たちと共にいてくださり、私たちが神を愛し、人を愛することができるように絶えず励まし、勇気づけ、導いてくださっています。
結論
神様が私たちに与える使命(私たちに望んでいること)について考えるとき、絶対に忘れてはならないことがあります。それは、
ということ。
私たちの救いはイエス様を救い主と信じて従おうとする信仰によってのみ与えられます。
ただし、信じて救われた後は私たちが好き勝手な人生を生きてよい訳ではなく、神様の子として神様の望まれる人生を生きることが期待されています。それによって、私たちが神様から受けた恵みと祝福が周りの人に広がっていくためです。
今日の箇所でモーセは神様の恵みによって神様と出会い、神様と共に生きるという祝福を受けました。そして、神様がモーセに与えた使命を通して、神様と出会い神様と共に生きるという恵みと祝福がイスラエル全体に広がっていきました(比較:出エジプト記19章10-24節;40章34-38節)。
ひょっとしたら、もう大分前から神様に示されていることがあるにもかかわらず、それを実行する勇気をもてなかったり、あれこれと理由をつけて先延ばしにしている方がいるかもしれません。
神様はあなたと共にそのことを成し遂げたいと願っていらっしゃいます。あなたの内には神の霊なる聖霊が住んでいてくださって、あなたを助け導いてくださっているのです。
神様が自分に望んでいることが何か分からないとおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、それぞれが置かれている場所において、あなたにしかできない愛し方、愛の表現方法があります。
それは、例えば、職場で疲れている人に声をかけることかもしれません。落ち込んでいる友達に寄り添うことかもしれません。何でも構いません。自分が困っているときに人にしてもらって嬉しかったこと、励まされたこと、助かったことなどを自分に出来ることから始めてみると良いと思います(比較:マタイによる福音書7章12節)。
もちろん、簡単なことではありません。「自分にはできるはずがない…」そう思うかもしれません。しかし、神様はおっしゃいます。
参考文献および注釈
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.