お茶の水クリスチャン・センターで開かれた「フライデーナイト」でのメッセージの要旨です。
- 日時:2019年2月15日(金)19:00-20:30
- 場所:フライデーナイト@お茶ノ水クリスチャン・センター8階チャペル
- メッセージタイトル・テーマ:「失敗は想定内」
- 聖書個所:ルカによる福音書22章54-62節
54人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 55人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 56するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。 57しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。 58少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。 59一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 60だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 62そして外に出て、激しく泣いた。
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)156頁1
導入
昨日2/14はご存知バレンタインデーでした。このバレンタインデー(特にホワイトデー)というものは、人間関係に関するあることを教えてくれます。
そのあることとは、私たちの人間関係は基本的に「何かをしてもらったら、何かお返しをしないと悪い気がする」「何かをすれば、何かをしてもらえるはずだ」というギブアンドテイク(貸し借り)の関係の上に成り立っているということ。
見返りを期待することなく、自らを犠牲にして誰かに何かをすること、人を愛することは非常に難しいということです。
そんな世の中にあって、
そのことを今一度、確認したいと思います。
イエスの預言
今日の聖書個所は、イエス様の一番弟子と言っても良いペトロがイエス様との関係を三度否定する場面です。
このとき、イエス様はユダヤ人指導者たちによって捕らえられ、時の大祭司の家で尋問を受けていました。その少し前には、イエス様は弟子たちと「最後の晩餐」を取られ、その席上で弟子たちの失敗・挫折を予言されます。
と同時に、ペトロに対しては「信仰が無くならないように祈った」から、失敗・挫折から立ち直った時には、落ち込んでいる他の仲間を励ましてやるようにとおっしゃいました(ルカによる福音書21章31-32節)。
そんなイエス様に対してペトロは、たとえ死ぬようなことがあったとしても失敗・挫折はしないと自信満々に答えます(33節)。
すると、イエス様は「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)とおっしゃいます。そして、
ペトロの失敗
皆さんは今日の聖書個所で、ペトロがイエス様との関係を三度否定するのをどのような思いで読まれたでしょうか。彼を非難する方もいれば、同調・同情する方もいらっしゃるでしょう。
私自身のことでいうと、神様を信じる信仰にかけては「絶対に何があっても揺るぐことはない!」「イエス様のために殉教できるなら本望だ!」と今日の箇所のペトロのように考えていたときがありました。
しかし、そんな私自身の自惚れ・おごりが、今日の箇所のペトロと同じく、あっさりと打ち砕かれるような体験をしました。ある出来事をきっかけに、もう教会には二度と行きたくない、周りにも自分がクリスチャンであるとは言わず、一人ひっそりと信仰を守って生きていこうと思うようになってしまいました。
失敗からの回復
しかし、
それは
彼らは、私の嘆きにただ耳を傾け、時間を共にしてくれました。私を責めようともせず、非難めいたことも言わず、無理に励まそうともせず、ただただ傍にいて祈ってくれました。ありのままの私を受け入れ、私のペースにあわせて寄り添ってくれたのです。
今日の聖書個所で、ペトロがイエス様との関係を三度否定したとき、イエス様は振り返ってペトロを見つめられたと記されています(61節)。
これはあくまで私のイメージですが、このときのイエス様の眼差しは恐らく
という眼差し。
ではなかったかと思います。
そのときのイエス様の眼差しに表れていたものは、まさに私が落ち込んでいた時、私を支え慰め立ち直らせてくれた人たちから感じた優しさと憐れみと愛と同じものであったように思えてなりません。
そこにあるのは決して見返りを期待しない愛。たとえ自分がどんな目に遭ったとしても変わらずに接し続けてくれる愛。私が何かできるからではなく、何かの役に立つからでもなく、ただ存在そのものを受け入れてくれる愛です。
そんな見返りを期待しない無条件の愛は、
です。
です。
そのことは、今日の箇所の出来事の後、復活したイエス様に出会い、聖霊を受け、文字通り死を恐れることなく大胆に福音を語る者へと変えられたペトロの人生をみれば明らかだと思います。
結論
神様・イエス様は私たちのことを私たち以上にご存知です。私たちの良いところはもちろん、悪いところも全てご存知です。
のです。
私たちが何かできるから、何かを成し遂げたからではありません。私たちの存在そのものを高価で尊いと思っていてくださっています。
です。
神様のスゴイところは、
ところです。
また、
むしろイエス様は、ペトロのときのように、私たちの信仰がなくならないようにとりなしてくださっています(比較:ヨハネによる福音書17章24節;ヘブライ人への手紙7章25節)。私たちといつも共にいて、私たちを慰め励まし導いてくださいます。そして、
と願っていらっしゃいます。
会社や家庭内のギブアンドテイク(貸し借り)に基づく人間関係に疲れてしまっている方がいらっしゃるかもしれません。何かに失敗したために人間関係が壊れ、「自分は生きる価値がない」「生きていても仕方がない」と思い詰めている方がいらっしゃるかもしれません。
または、信仰生活において「良いクリスチャンだと言ってもらうために」とか「牧師に認めてもらうために」といった動機で礼拝に出席したり聖書を読んだり献金している方がいらっしゃるかもしれません。「―をしてもらうために―をする」というのは、ギブアンドテイク(貸し借り)の関係そのものですので、一時は頑張れたとしても、いつかは必ず限界がきます。
たとえあなたが何もできなくても、神様はそのままのあなたを愛しておられます。たとえあなたが何かに失敗したとしても、神様があなたを見限ることはありません。たとえあなたが神様の望んでいないことをしているとしても、神様はあなたが神様のもとに帰ってくることをずっと待っていてくださっています。
辛いことや悲しいこと、苦しいことや落ち込むこと、
見返りを期待しない神様の無条件の愛によって生かされていることに感謝しつつ、日々、歩むことができますように。
参考文献および注釈
- Bock, Darrell L. Luke. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.