礼拝説教の要旨です。
- 日時:2020年8月2日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「実現する神の計画」
- 聖書個所:創世記47章13-31節1
導入
新型コロナウイルスの感染が全世界へ広がり、この半年余りで私たちの生活はこれまでと全く異なるものとなってしまいました。
これまでに味わったことのない大きな不安と恐れの中で生きることを強いられています。
今日の聖書個所の前半部分(創世記47章13-26節)には飢饉で苦しむ人々の様子が描かれています。不安と恐れと絶望の中にあった彼らを聖書の神様はヨセフを通して救い出されました。
今日の聖書個所を通して、聖書の神様がどのようなお方か、特にどのようにしてその計画を成し遂げていかれるかを再確認したいと思います。
人々を救う神
今日の個所でヨセフは、食料を求めてやってきた人々に対して、まず彼らの持っていた銀と食料を交換します(創世記47章14節)。
銀が無くなると今度は人々の家畜と食料を交換します(15-17節)。
それでも食料が尽きた人々は、今度は自分たち自身と土地を引き換えに食料を得ます(18-19節)。と同時に、穀物の種をもらって、再び畑を耕そうとしています(19節)。
そんな彼らの要求に従って、ヨセフは彼らに種を与え、収穫の五分の一をファラオに納めるように指示を出します(23-24節)。
すると人々は自分たちの命を救ってくれたことをヨセフに感謝しています(25節)。
現代の私たちの感覚からすると、この光景に違和感を感じるかもしれません。
というのも、この場面のヨセフはまるで食料に困っている貧しい人々を奴隷にして搾取する独裁者のようにも思えるからです。
しかしながら、当時の社会では「奴隷」となることはそれほど珍しいことではありませんでした。「奴隷」だからといって、その生活が極端に苦しいわけでもありませんでした(比較:創世記39章)。
また、収入の20%をファラオ(国)に納めるというのは、当時の基準からすると決して多い訳ではなかったようです。
計画を成し遂げる神
今日の個所で神様はエジプト全域の人々の命を救っています。特定の民族だけでなく
が見て取れます。
さらに言えば、ヨセフを通して多くの人々の命を救うという出来事は、神様があらかじめ定めておられた計画の一部でもありました(参照:創世記28章14節)。
この計画を実現するため、
神様があらかじめ定めておられた計画を成し遂げていかれる様子は今日の聖書個所の後半部分にも描かれています。
創世記47章27節にはイスラエル(ヤコブ)一族の数が増えていく様子が記されています。
ヤコブの子孫が増えるというのは神様がヤコブの祖父アブラハムの時代から約束されていた計画の一部でした(参考:創世記15章5節; 46章3節)。
しかしながら、この神様の計画もまた
その計画の実現のためにはヨセフがファラオに次ぐ地位に就く必要がありました。
また、ゴシェンの地で暮らすようになってからも約400年という時間をかけて、イスラエル民族は着実に、かつ確実にその数を増していったのです。
人知を超えた神の計画
お方です。が、しかし、残念ながら、
主が共におられたと言われるヨセフでさえ(創世記39章2、21節)、全てのことを予め知っていた訳ではありませんでした。
飢饉のために食料を求めてヨセフの兄弟たちがエジプトにやって来たとき、ヨセフは彼の身に起こった様々な出来事の意味を悟ったのです(参照:創世記45章7-8節)。
このときヨセフは39歳だと考えられます(参考:創世記41章46-47節; 45章6節)。17歳でエジプトに売り飛ばされてから (創世記37章2節)、実に22年もの歳月が流れていたことになります。
私たちの人生においても多くの苦しみや悲しみを経験します。
そんなとき誰もが、
と自問自答すると思います。しかし、
ただ、
ものなのです。ただ確かなこと、それは
こと。そして、
ということです(参照:創世記50章20節)。
結論
神様はヨセフを通してヤコブ(イスラエル)一族だけでなくエジプト全域の人々の命を救われました。それは、
でした。そこには全人類を救わんとする神様の愛が表れています。
また、その救いの計画を実行するにあたり、
神様御自分の計画を必ず実現されるお方です。
しかし、
実際には、全てのことが落ち着いてから過去を振り返ってみて初めて、神様の御業(計画の全貌)に気付かされることがほとんどです。
神様は人知を超えた絶対的な主権をもったお方なのです。
全人類に対する神様の愛と神様のもつ絶対的な主権が最もはっきりと表れているのがイエス様の十字架です。
それは血縁によらず、行いによらず、ただ
です(ヨハネによる福音書1章12-13節)。
この神様の救いの計画が実現するためには、子なる神イエス様が無実の罪で十字架に架かる必要がありました。
のです。
この世で私たちが経験する苦しみや悲しみの原因は、かなり強引に分けるとすれば、大きく二つに分けられると思います。
一つ目の原因は人間関係のもつれ。もう一つは自然災害など人の力ではどうしようもないものです。
人間関係に関わる苦しみや悲しみを経験したときには、まず
ことが大事だと思います。そして、自分にも間違っているところがあると気付かされたならば、
そこから和解が始まっていきます(参考:マタイによる福音書7章1-5節;ローマの信徒への手紙12章17-21節)。
とはいえ、自分の間違いを認めて謝ることは簡単なことではありません。聖霊の助けが必要です。
お方だからです。
でも時には、自分ではどうにもならない力・流れによって、自分は全く何も悪いことをしていないのに苦難や困難を経験することがあります。
そんなとき誰もが、その苦しみや悲しみの理由・意味を知りたいと願います。
しかしながら、
むしろ、ずっと後になって状況が落ち着いてから過去を振り返ってみて初めて、その理由・意味が明らかになることが多いのが現実です。
そんな理不尽な状況にあっても確かなことがあります。それは、
ということ。そして、
です。
が、しかし、そんなことを言われたとしても、苦しみや悲しみの只中にいるときにはなかなかその言葉が耳に入って来ない人がほとんどだと思います。
でも、そんなときにこそ
そして、
そうするとき、
でしょう(フィリピの信徒への手紙4章7節)。
参考文献および注釈
- Mathews, Kenneth. Genesis 11:27-50:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005.
- Walton, John H. Genesis. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
- Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.