礼拝説教の要旨です。
- 日時:2021年3月21日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「恵みによる救い」
- 聖書個所:ローマの信徒への手紙4章13-25節1
導入
新型コロナウイルスが広まり始めて一年以上が経ちました。
これからどうなるのか、まだまだ先が見えません。
今日の聖書個所に出てくるアブラハムは先がはっきりとは見えない状況にあっても神様を信じた人物です。
その信仰の故に彼は神様に義と認められた最初の人物となりました。そして、今では「信仰の父」とも呼ばれています。
今日は
また
をみていきます。
アブラハムの神
アブラハムの信じた神様について、今日の聖書個所からまず分かることは、
だということです(ローマの信徒への手紙4章13節)。
と約束されました(創世記12章2-3節)。具体的には、
という意味です(参考:ガラテヤの信徒への手紙3章6-18節)。
この約束がなされたのはアブラハムが律法を守り行ったからではなく、信仰によって神様に義と認められたからです。
律法を守り行えない私たちを待っているのは神様の怒りです(ローマの信徒への手紙2章1-8節)。神様と約束を結ぶどころではありません(4章14-15節)。
です(4章16節)。
神様は高齢のために子供を産めるはずのなかったアブラハムとサラの肉体を生かし、子供をお授けになりました(創世記18章11節;比較:ローマの信徒への手紙4章17節)。
何もない「無」の状態から数えきれないほどの子孫という「有」を呼び出される神様。
であることが分かります(ローマの信徒への手紙4章17-21節)。
アブラハムの信仰
神様が義と認めたアブラハムの信仰は一体どのようなものだったのでしょうか。
まず
とローマの信徒への手紙4章18節に記されています。
アブラハムが妻のサラとの間に息子が生まれると告げられたときサラは月経がなくなり、生物学的には妊娠は不可能でした(創世記18章11節)。
人間的に考えると、子供を授かりたいという望みすら抱くことができない状況にあった訳です。にもかかわらず、約束を必ず実現する全知全能な神様の言葉に望みを抱いて信じたのがアブラハムでした。
さらにパウロは、
とも言っています(ローマの信徒への手紙4章20-21節)。
恵みによる救い
ここで聖書に詳しい方は
と疑問に思うと思います。というのも、創世記17章において、神様がアブラハムとサラの間に子供が生まれると告げたとき、アブラハムはその言葉を直ぐには信じなかったからです(創世記17章17-18節)。
であろうことは他の個所からもみてとれます。
例えば、創世記20章において、アブラハムは自分の身を守るためにサラを犠牲にしています。サラがいなくなってしまうとサラとの間に子供が生まれるという神様の約束が実現しなくなってしまうにもかかわらず、です。
このとき、神様の介入のおかげで、サラは無事にアブラハムのもとに戻ることができ、創世記21章ではついに息子イサクが生まれます。
であることが分かります。
では、ローマの信徒への手紙4章20-21節でパウロが、アブラハムは不信仰に陥らず神様の約束を疑うことはなかったと言っているのは間違いなのでしょうか。
もちろん、パウロ(聖書)が間違っている訳ではありません。
と言えるからです。けれども
のは確かです。この意味で、
私たちは皆、神様の恵みによって救われるのです。
結論
信仰の父アブラハムが信じた聖書の
です。また
でもあります。
たとえその約束が科学的または世の中の常識で考えると実現不可能と思われることであったとしても、です。
しかしながら、
時には神様の言葉を信じ切ることができず、神様の約束よりも自分の身の安全を優先することもありました。にもかかわらず、
のです。
祈りさえすれば自分の願いを何でもかなえてくれる存在でしょうか。
自分が努力した分、その努力に報いてくださる存在でしょうか。
もし仮に、私たちの行いに応じて神様が報いてくださるとするならば、この世の誰一人として神様に願いを聞いてもらえるような立場に立つことはできません。
むしろ、皆もれなく、神様の怒りによって滅ぼされてしまうことになります(ローマの信徒への手紙2章5節;3章9、23節;4章15節)。
です。また、
もちろん、信仰の歩みは千差万別で、人と比べるようなものではありません。
しかし、ある程度の年月を重ねてくと誰もが少なからずの信仰の浮き沈みを経験すると思います。
特に昨今は新型コロナウイルスの影響もあって、不安と恐れに囚われやすい状況にあります。
神様の働きを疑いたくなるような状況です。
神様が一体何をしているのか、何を考えているのか良く分からなくなってしまう状況です。
先が見えず、何を望めばよいかも分からないような状況です。
でも、そんなときにこそ、
その当時の誰一人として、神様の救いの御業がイエス様の十字架によって実現されるとは想像さえしていませんでした。
また
と約束してくださっています(フィリピの信徒への手紙3章20-21節;コリントの信徒への手紙一15章21-26節;ヨハネの黙示録21章1-4節)。
この約束は現代科学や社会の常識では到底受け入れられないことです。
100歳のアブラハムと90歳のサラに子供が生まれることと同じかそれ以上に、望むことすら馬鹿げているような約束です。
が、しかし、
そして
そのように生きる中で、信仰の確信が揺るがされるような出来事が起こるかもしれません。
神様の思いや考えよりも自分の思いや考えを優先してしまうことがあるかもしれません。
神様を遠くに感じてしまうことがあるかもしれません。
が、しかし、
あなたの信仰が完璧・完全だから救われるのではありません。あくまでも
のです。
参考文献および注釈
- Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
- ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
- Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.