礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年1月30日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「想像を超える神の救い」
- 聖書個所:出エジプト記3章1-12節1
導入
誰もが人生のどこかで、心の中で大声で叫びたくなるような経験をしたことがあるのではないでしょうか。
今日の聖書個所には、
場面が記されています。
今日はこの聖書個所を通して、
を共に学んでいきたいと思います。
呼びかける造り主
先週の聖書個所(出エジプト記2章11-25節)では、エジプトの王室で何不自由ない生活を送っていたモーセがエジプトの王から命を狙われるようになり、エジプトを離れミデヤンという地方に移り住むようになった次第が描かれていました。
その時、モーセは40歳だったと使徒言行録7章23節には記されています。モーセはこのミデヤンの地で結婚し、しゅうとの羊を飼う者となります(出エジプト記2章21-22節;3章1節)。
そうしてミデヤンに移り住んでから40年の時が流れ、モーセが80歳のとき、今日の個所に記されている出来事が起きました(比較:使徒言行録7章30-34節)。
このとき、出エジプト記3章1節にあるように、モーセは羊を連れてホレブという山に来ていました。このホレブ山は後にはシナイ山という名前でも出てきます(出エジプト記19章11節など)。
そのホレブ山でモーセは不思議な光景を目にします。
のです(出エジプト記3章2節)。そしてモーセはその様子を間近で見ようと近づいていきます(3節)。
すると神様は柴の間からモーセに呼びかけられ(4節)、その場所は聖なる土地だから履物を脱ぐようにと命じられます(5節)。
ここで神様がモーセに履物を脱ぐように命じられたのは、当時の時代背景を考えると、
だと考えられます(比較:ヨシュア記5章15節)。
痛みを知る救い主
モーセに履物を脱ぐように命じられた後、神様は御自分がモーセの先祖の神であることを告げられます(出エジプト記3章6節)。
そして7節には聖書の神様が御自分の民とどのように関わってくださるかが記されています。
聖書の神様はただ遠くから人々が苦しんでいるのを眺めるだけの神様ではありません。
です(比較:創世記18章21節)。
さらに、その苦しみと痛みを知って終わりではなく、
とされています(出エジプト記3章10節)。
ところが当のモーセは神様からイスラエル民族をエジプトから導き上るように言われて躊躇します(11節)。
しかも、この後の3章13節から4章17節の中で
モーセはエジプトで殺人を犯し、エジプトから遠く離れたミデヤンの地で40年もの間、エジプト人とはもちろんイスラエル人とも交流することなく細々と暮らしてきました。
今更エジプトに戻ったところでイスラエル民族からは相手にされず、エジプト人からは最悪、命を狙われるようになるかもしれないという状況です。
モーセがイスラエル民族をエジプトから導き出すという使命を引き受けたくなかったのも無理はありません。
けれども、神様はそんなモーセを選び、おっしゃるのです。
想像を超える神の救い
です。
その当時の人々はモーセ自身も含め誰一人として、エジプトから逃げてミデヤンの地で80歳を迎えたモーセが神様に選ばれ、イスラエル民族をエジプトから導き出すという大役を任せられるとは思っていなかったはずです。
対照的に、40歳で殺人を犯す前のモーセがイスラエル民族をエジプトから導き出すと言えば、彼のことを信じた人は相当数いたのではないかと思われます(参考:使徒7:19-22)。
ところが、神様はそのときのモーセを用いませんでした。
その理由は恐らく、
からではないかと思います(参考:詩編51編18-19節;コリントの信徒への手紙一8章1-2節)。
モーセがミデヤンで過ごした40年間は人間的な感覚からすると一見、無駄で無意味なものに思えるかもしれません。
けれども、その40年間はモーセの心が砕かれ、人格的に大きく成長するために欠かせない期間だったと言えます。
訳です。
であることが分かります。
結論
神様は人間が苦しんでいるのを遠くで眺めているだけのお方ではありません。
です。そして、
です。
最後に、聖書の語る「救い」についてもう少し考えてみます。
エジプトの王がイスラエル民族に最初に強制労働を課すようになってから(出エジプト記1章8-11節)、今日の個所でモーセにイスラエル民族救出の使命が与えられるまで、少なくとも80年が経過しています。
その間、多くの人が苦しみと痛みの中で神様に叫びました(出エジプト記2章23節)。
そして、神様はその叫びを聞かれたと聖書は記します(出エジプト記3章7節;比較:出エジプト記2章23-24節;3章9節)。
けれども、中には恐らく、
と思われます。残念ながら、
からです。あくまでも
しかも、
その意味で、モーセによってエジプトから導き出されたイスラエル民族も本当の「救い」を体験した訳ではありません。
だと言えます(参考:ルカによる福音書24章27節)。
イエス様によってもたらされる本当の「救い」というのは、
です。その罪および死の支配から人々を解放するため、
のです(ヘブライ人への手紙2章14-15節;コリントの信徒への手紙一15章17節;ローマの信徒への手紙6章6-11節)。そのおかげで
ようになりました(ローマの信徒への手紙6章22-23節、8章1-2, 15-16節)。そして、
と聖書は約束しています(フィリピの信徒への手紙3章20-21節;コリントの信徒への手紙一15章51-55節;ヨハネの黙示録21章1-4節)。これは
です。
私たちにできることは、
ことです(参考:マタイによる福音書24章36-51節)。
と思います。
とりわけ、現在のコロナ禍では計画や予定そのものがまともに立てられるような状況ではありません。計画していたことややりたいことが実行できず、
が、しかし、私たち人間の目から見て、
一向に前に進んでいないと感じる状況にあったとしても、
神様が全く働いておられないと感じる状況にあったとしても、
ひょっとしたら、この世においては、その苦しみと痛みからの救いはあなたの望むようなかたちでは来ないかもしれません。
たとえそうだとしても、
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.