礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。
- 日時:2022年5月22日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「区別する神」
- 聖書個所:出エジプト記12章14節-28節1
導入
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では今年に入ってから出エジプト記からの説教を続けています。が、もうすぐ出エジプト記の中での一つの大きな山場を迎えます。
その山場というのは、エジプト人にもたらされる10個目の災いです(出エジプト記11章5節; 12章29-30節)。
この10個目の災いによって、ファラオは遂にイスラエル民族をエジプトから去らせるという決断を下します(12章31-33節)。
ところが、その山場を目前にして、先週そして今週の聖書個所で「過越祭(除酵祭)」についての説明が入ります(12章1-28節)。
一見すると話の腰を折る記述のように思えますが、その昔、この出エジプト記に記されている話を最初に読んだ読者にとって、この「過越祭」というのは非常に重要な意味合いをもったお祭りでした。
自分たちにとって馴染みのある「過越祭」の象徴的な意味合いと実際に起きた出エジプトの出来事を重ね合わせることで、彼らはきっと出エジプト記の話の中により深く入りこむことができたに違いありません。
今日は
過越祭と神の民
まず「過越祭」という名前の由来について確認しておきます。
出エジプト記12章13節に、
とあります。
ここで言う「災い」というのは、各家庭の長子(初子)が人も家畜も皆、死んでしまうという10個目の災いです。この
という訳です。
この「過越祭」には外国人は参加できません(出エジプト記12章43-50節)。
ただし、外国人であっても寄留者または奴隷であって、かつ割礼を施していれば、過越祭に参加ができます。
割礼というのは、神様とのイスラエル民族との間の契約のしるしです(参考:創世記17章9-14節)。つまり、
ということになります。反対に、
とも記されています(出エジプト記12章15節;比較:民数記9章13節)。
と言っても過言ではありません。
信仰と救い
「神の民であるかどうか」を決めるのは、後の時代には、割礼をしているかどうかでした。
しかしながら、実際に10個目の災いが過ぎ越したとき、神の民であるかどうかを決めたのは割礼をしていたかどうかではなく、
でした(出エジプト記12章23節;比較:12章5-7, 13節)。
いけにえの小羊の血を家の柱と鴨居に塗るというのは、神様の語った言葉が必ずや実現するであろうという信仰がなければできない行為です。
それまでの9つの災いにおいて、イスラエル民族は特別な行動を取る必要はなく、ただイスラエル民族だからという理由だけでその災いから免れることができていました。
けれども、この最後の災いに至って、
と言えます。
ことが見て取れます。
いけにえと救い
「過越し」という出来事を通して、
ということも示されています。
イスラエル民族の家々の長子が死から救われたのは「欠陥のない一歳の雄の小羊」(出エジプト12章5節)という犠牲があったからでした。
ことが分かります(参考:レビ記17章11節)。
私たちのほとんどは、今この場で直ぐにも死ぬかもしれないという危険には去らされていないかもしれません。
しかし、
というのは、避けることのできない事実でもあります。
実は、
だと聖書は語ります(ローマの信徒への手紙5章12節)。
最初の人アダムが神様から食べてはならないと命じられていた「善悪の知識の木」の実を食べてしまったために地は呪われ、アダムも永遠に生きることができなくなってしまいました(創世記3章17-19, 22節)。
それ以降、全人類は皆、いつかは必ず死ぬという定めから逃れることができなくなります。
訳です。
を指しています。
人が神様に従わない
神様の思い・考えよりも自分の思い・考えを優先する
神様ではなく自分が決める善悪の基準に従って生きる
それらは全て「罪」です。
このように広い意味の「罪」を考えるとき、恐らく
ように思います(比較:列王記上8章46節;ローマの信徒への手紙3章23節)。
そして、その
であると聖書は語ります(ローマの信徒への手紙6章23節)。
けれども
そして
それだけではありません。
確かに、私たちはこの地において死を経験します。
けれども、
そして
それはまさに天地創造の始め、罪がこの世に入ってくる前のエデンの園の状態、天地万物が本来あるべき姿に戻された状態です。
結論
神の民イスラエル人にとって、「過越祭」は最も重要な祭りの一つでした。事実、
と言えるほど、イスラエル民族にとって過越祭は重要な役割を担っていました。
過越祭を祝うことがなぜそれほどまでに重要だったのかというと、
からです。
過越祭を通して私たちは、
また
を知ることができます。
さらに、過越祭を通して示される神様の救いは
ものでもあります。
イエス様は私たちの命の贖いをするため、「神の小羊」として、十字架上でその命(血)を献げてくださいました(ヨハネによる福音書1章29節)。
そのイエス様の御業の故に私たちは、
ことができるようになりました(ヨハネによる福音書3章16節)。そして、
という約束が与えられています。
神様の救いを受け取るために必要なものはイエス様を信じ従おうとする信仰だけです。
私たち人間にしてみれば、無代価(タダ)で手に入れることができる、神様からの贈り物。
それが神様の救いです。
とはいえ、もちろん、イエス様を信じ従おうとすることによって、何らかの「犠牲」を払う必要はあるかもしれません。
それまでのような自分中心的な生活を神様中心的な生き方に変えるにあたって、それまでは当たり前と思っていた生活様式を捨てる・変える必要が出てくるからです。
でも、たとえそうだとしても、
だと言えると思います。
のです。
あなたが神様の役に立つからではありません。
人並外れた才能があるからでもありません。
社会や他の人のために人生を献げたからでもありません。
のです。その
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.