「心からの満足」:2023年3月26日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

皆さんは

これまでの自分の人生に満足していますか?

と尋ねられたら、どのように答えますか。

先週、先々週とTokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)ではイザヤ書52章13節—53章12節からの説教が続いています。

この個所には「苦難の僕(しもべ)」と題される人物の姿が描かれていて、その描写は明らかにイエス様の十字架上の苦しみを表すものとなっています。

そして今日の聖書個所であるイザヤ書53章11節には十字架上の苦しみを受けた後、神様の僕であるイエス様は「満足する」と記されています。

今日は、なぜイエス様が十字架の苦しみの後で満足することができたのかを考えつつ、

苦しみや悲しみ、痛みの尽きない、今のこの世の中において心からの満足を得るためにはどうすればよいのか?

について考えたいと思います。

イエスの苦しみ

そのためにまずイザヤ書52章13節—53章12節全体の内容を振り返りながら、イエス様が経験された苦しみがどのようなものかを見ていきます。

イザヤ書52章14節には

神の僕であるイエス様の姿が損なわれ、その姿形は人とは思えないほどに違っていた

とあります。

イエス様の時代のローマ帝国で使われていた鞭の先には鉛の玉や動物の骨がついていて、体を打つと骨が折れたり肉が削がれ大量の出血を伴ったりしたようです。

その肉体的な苦しみは私たちの想像を絶するものであったと言えます。

イエス様が受けた苦しみは肉体的なものだけではありませんでした。

イザヤ書53章3節には

神の僕であるイエス様が人々から軽蔑され、見捨てられる

とあります(比較:マルコによる福音書14章50節; 15章16-32節)。

しかも、イエス様は様々な人から罵られ、蔑まれ、あざけられたにもかかわらず、一言も彼らに言い返すことはなさいません。

イエス様はただ黙って、全てのそしり、あざけり、罵りを耐え忍ばれました(参照:イザヤ書53章7節)。

人々からの罵りや嘲りに対して何も言わないことも驚くべきことですが、それ以上に驚くべきことは、

イエス様は十字架にかけられるようなことを何もしていないにも関わらず、その罰を黙って受け入れた

ということです(参照:イザヤ書53章8節)。

肉体的な苦痛はもちろん、イエス様の受けた精神的な苦痛もまた私たちの想像を絶するものであったと言えます。

イエスの救い

イエス様が私たちの想像を絶するような肉体的・精神的な苦しみをただ黙って受け入れたのは私たちの救いのため

でした(イザヤ書53章5-6節)。

そして、そのような

イエス様の苦しみを通して人類の救いを成すのは神様の望み

であったと今日の聖書個所となるイザヤ書53章10節に記されています。

53章10節にはさらに、

イエス様が自分の命を償いのいけにえとするなら、イエス様は長寿を得て、その子孫を見る

ともあります。

この預言は確かにイエス様の十字架と復活という出来事によって成就しました。

というのも、イエス様は十字架で死んで終わりではなく、死んだ後によみがえり、今も生きておられますから、確かに「長寿」を得ています。

またイエス様を信じる人は霊的にアブラハムの子孫とされます(ガラテヤの信徒への手紙3章29節)。

イエス様もアブラハムの子孫でしたので(マタイによる福音書1章1節)、イエス様を信じる人はアブラハムの子孫とされると同時にイエス様の子孫とされることになります。

神様の望みである救いが神様の僕イエス様の十字架と復活の御業によって成し遂げられ、イザヤ書53章10節の預言は確かに成就した

訳です。

イエスの満足

続くイザヤ書53章11節には、冒頭でも紹介したように、

神の僕イエス様がその苦しみの後で満足する

ことが記されています。ここで

イエス様が満足しているのは人類を救わんとする神様の望みが成し遂げられたから

です。

どれほどの肉体的、精神的な苦しみを受けることがあったとしても、その結果として神様の望みである救いが成し遂げられたから、イエス様は満足することができた訳です。

ある学者はこのときのイエス様の満足は出産直後に女性が感じる満足に似ているところがあると書いていました。

女性は出産時の想像を絶する痛みを経験した後、生まれてきた新しい命を見て、満足します。

それと同じように、イエス様もまた十字架の上で精神的・肉体的に想像を絶する痛みを経験した後、イエス様を救い主として信じる信仰によって生まれてきた新しい命を見て、満足します。

どちらも痛み・苦しみの後に生まれてきた新しい命を見て、満足するという点で似ていると言えます。

結論

イエス様は十字架で私たちの想像を絶するほどの肉体的・精神的な苦しみを経験されました。

イエス様がその苦しみを耐え忍ばれたのは、私たちを救わんとする父なる神の望みを成し遂げるためでした。

そして、イエス様はその苦しみの後で成し遂げられた神様の救いの業を見て、満足します。

とはいえ、現在もまだ聖書の語る救いにあずかっていない人たちが大勢います。

特に日本ではクリスチャンの割合は人口の1%にも満たない状況です。

そして、神様・イエス様はそのような日本の状況に対して満足している訳ではもちろんありません。

ただ、

一人の人の命がイエス様を信じる信仰によって救われるとき、イエス様はその一人の人のために心から喜び、満足しておられる

のです(比較:ルカによる福音書15章7, 9節)。

イエス様の時代に限らず、いつの時代、どこであってもこの世の中は苦しみや悲しみ、痛みに満ちています。

そんな中にあって、心からの満足を得ることはなかなかできないように思います。

しかしながら、今日の聖書個所から分かることは、

たとえこの世の中で苦しみや悲しみ、痛みを経験することがあったとしても、その辛い経験は決して無駄ではなく神様の計画の一部であったと分かるとき、私たちは満足を覚えることができる

ということです。言うなれば、

神様の絶対的な主権に信頼できるかどうかが今のこの世の中において心からの満足を得ることができるかどうかのカギ

だと言えます。

イエス様の場合は十字架での苦しみは決して無駄ではなく、人類の救いのために必要不可欠なことであると知っていました。

私たちの場合は、その今の苦しみの意味を直ぐに知ることはできないかもしれません。

しかし、自分自身の過去を振り返ってみても、

苦しいことや悲しいこと、辛いことを通して神様のことをより深く知ることができた

ことが多いように思います。また

苦難や困難を通して、人格的に成長する

ことも多いような気がします(比較:ヘブライ人への手紙12章10節)。

苦しみや悲しみの最中ではなかなか分からないとしても、その

苦しみや悲しみが過ぎ去った後でふと気づかされる神様の働きや恵み・祝福は多い

ものです。

そのような体験を繰り返していくことで少しずつ神様の絶対的な主権を思わされ、

「今のこの苦しみも神様の計画の一部だ」

「この苦しみには意味がある」

と思える・信じられるようになっていくのではないかと思います。

また、今日の聖書個所において、

イエス様の満足は神様の望みの実現に土台を置いていた

ことにも注目すべきだと思います。

私たち人間の満足は自分や他人の望みが実現したときに得るものがほとんどだと思います。

そして

その満足は長続きしません。

なぜなら、自分や他人といった人間の望みは変わりやすいものだからです。

しばらくの間は満足したとしても、直ぐに新しい別の望み・欲求・欲望が出てきて、その状態に満足できなくなります。

対して、神様というお方は永遠の昔から変わることのないお方ですから、その神様の望みが変わることもありません。ですから、

永遠の神様の望みが実現すれば永遠の満足をもたらす

ことになります。

あなたは何に満足を得ようとしているでしょうか?

自分や他人の望みを満たすことで満足を得ようとするのであれば、それは束の間の満足しか与えてくれません。

けれども、神様の望みを満たそうとすることは永遠に続く心からの満足を得る道へとつながります。

その意味で、心からの満足を得るために一番良いのは

自分の望みを神様の望みに近づける

ことだと言えます。ただ、私たち人間の望みと神様の望みは大きく異なることが多々ありますから、自分の望みを神様の望みに近づけることは決してラクなことではありません。

その過程で痛みや苦しみを伴うことがあります。

でも、

その痛みや苦しみの後には、必ずや私たち人間にとって最高最善の結果が待っています。

なぜなら、私たち人間のことを誰よりも理解しているのは創造主なる神様だからです。

しかもこの神様は愛なるお方、ご自分の命をかけても被造物なる人間を救おうとするお方です。その神様が望まれることは私たち人間にとって最高最善でないはずがありません。

変わりやすい人間の望みではなく、決して変わることのない神様の望みを追い求め、
その絶対的な主権に信頼しつつ、
今のこの世の中にあって心からの満足を得ることができますように。

参考文献および注釈

  • Oswalt, John N. Isaiah. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003.
  • Smith, Gary V. Isaiah 40-66. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 2009.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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