「イエスが愛したように」:2023年9月17日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では今年の1月から「弟子訓練(Discipleship)」、即ち、イエス様の弟子とはどのような人たちのことで、どのように生きることが求められているかをテーマに説教してきています。

今日の説教はこの「弟子訓練」に関する核心的なものとなります。

というのもヨハネによる福音書13章35節でイエス様は、

イエス様が愛したように互いに愛し合うならば、彼らがイエス様の弟子であることを人々が知るようになる

とおっしゃっているからです。言うなれば、

イエス様の弟子とイエス様の愛は決して切り離すことができないもの
イエス様の弟子を弟子たらしめているものはイエス様の愛

ということになります。

今日はこの「イエス様の愛」に焦点を当てつつ、

イエス様の弟子である私たちクリスチャンはどのように互いに愛し合うことが求められているか?

について考えていきます。

最後まで愛し抜くイエス

今日の聖書個所の少し前、ヨハネによる福音書13章1節にはイエス様は弟子たちを「最後まで愛し抜かれた」と記されています。

従って、ヨハネの福音書全体を通してイエス様が弟子たちにどのように接しておられたか、また弟子たちに何をなさったかを見れば、イエス様が彼らをどのように愛されたかが分かることになります。

とはいえ、説教の時間は限られていますので、今日は今日の聖書個所の前後に記されている二つの出来事に着目したいと思います。

一つは、ヨハネによる福音書13章1-20節に記されているイエス様が弟子たちの足を洗う出来事、もう一つはイエス様が十字架で死ぬ出来事です。

自己犠牲的なイエスの愛

当時の人の多くは素足のまま、サンダルのような履物を履いて、土の上を歩き回っていました。

このため、家に入る前に汚れた足を洗うのが慣習となっていました(参考:創世記18章4節; 19章2節;ルカによる福音書7章44節)。

そして、他人の足を洗うのはあくまでも奴隷の仕事とされていました。

それ故に

弟子たちの主であり、先生でもあるイエス様が弟子たちの足を洗うというのは非常に衝撃的な出来事

でした。でも

なぜイエス様は弟子たちの足を洗ったのでしょうか?

それは、

弟子たちが互いに足を洗い合うように模範を示すため

でした(参照:ヨハネによる福音書13章14-15節)。

ここに、

その人の最善のために、自らの思いやプライドを脇に置いて、自分の成せる最高・最善のものを提供するイエス様

の姿をみることができます。

それは一言でいうならば、「自己犠牲的な愛」です。

この「自己犠牲的な愛」こそ、「イエス様の愛」の一つのかたちだと言えます。

無条件のイエスの愛

このイエス様の自己犠牲的な愛はこれから自分を裏切ろうとしていたユダに対しても注がれていました(ヨハネによる福音書13章26節)。

イエス様の自己犠牲的な愛は自分を愛してくれる人や自分に従順な人だけでなく、自分のことを理解せずに裏切る人も含めた全ての人々に向けられた無条件の愛

だということが分かります。

イエス様の自己犠牲的な愛は自分のことを理解せずに裏切る人にも向けられているというのは今日の聖書個所からも見て取れます。

イエス様の話していることが理解できないペトロはヨハネによる福音書13章35節でイエス様に「どこへ行かれるのですか」と尋ねています。

しかも彼はイエス様のためならたとえ命を捨てることになっても付いて行く(37節)と豪語しています。

そんなペトロが、鶏が鳴くまでに三度、イエス様のことを知らないというだろうとイエス様は預言されます(38節)。

このイエス様の言葉は、これから数時間も経たないうちに現実のものとなりました(ヨハネ18:15-27)。

ペトロの場合はユダの時とは異なり、意図的にイエス様を裏切った訳ではありません。

しかし

ペトロはイエス様に対する信仰を公に言い表すことよりも自らの身の安全の方を選んでしまった

訳です。

ここで私たちは誰もペトロを責めることはできないと思います。

というのも、私たちも彼と同じ状況に陥れば恐らく、同じことをしてしまうだろう弱い人間だからです。

注目すべきは、

そんな弱い人間を神様・イエス様は愛し抜かれた

ということです。

結論

神様は私たち人間の理解をはるかに超えたお方です。

私たちは神様の思い・考えを完全に理解することはできません。

そのため、

自分勝手に神様の思い・考えを解釈して、神様の期待・願いを裏切るような言動をしてしまう

ことがあります。

もちろん、神様の言葉である聖書を通して、神様の思い・考えをある程度は理解することができます。

しかしながら、

たとえ頭では理解していても、私たちは神様の望む生き方を落ち度なく完璧・完全に生きることはできません。
頭では分かっていても、周りのプレッシャーや誘惑に負けてしまう

ことがあるからです。

私たちは皆、クリスチャンであろうとなかろうと、神様の思い・願いから外れた言動を取ることがあります。

イエス様の弟子たちも例外ではありませんでした。

聖書はそれを「罪」と呼びます。

私たち人間にとっての福音(良い知らせ)は、

神様は私たちが罪を犯す弱くて不完全な存在であることをご存知である

ということ。そして、

その罪の罰から私たちを救い出すため、子なる神イエス様自らが私たちの罪をその身に背負い、十字架にかかって死んでよみがえってくださった

ということです。

イエス様はあなたがまだ神様・イエス様のことを知らないとき、あなたを罪の滅びから救うために十字架にかかってくださいました。

イエス様はあなたが神様・イエス様の思い・願いから遠く離れた生活をしているとき、自らの命を犠牲にして、あなたの身代わりとして、あなたの受けるべき刑罰を代わりに受けてくださったのです。

そのおかげで、あなたと私はイエス様を救い主と信じて従うとき、罪赦され、壊れていた神様との絆が回復します。

神様の子供として神様と共に永遠に生きることができるようになります。

神様と共に神様の子供としてふさわしい生き方を生きる

こと、これこそ、神様の目から見たあなたと私にとって最高最善の生き方です。

この最高最善の生き方ができるようになるため、イエス様は自らの命を十字架の上に捧げてくださった訳です。

神様・イエス様はあなたが何かできるから、何か特別な才能を持っているからあなたを愛してくださる訳ではありません。

神様・イエス様はあなたが何かを成し遂げたから、他の誰かよりも優れているから、あなたを愛してくださる訳でもありません。

神様・イエス様はあなたの存在そのものを受け入れ、認め、必要としてくださっています。
神様・イエス様はご自分の命に代えても惜しくないほどにあなたを高価で尊いものと思ってくださっている

のです。

損得勘定を抜きにして、相手の最高最善のために、自らの最高最善を提供する。

それが神様・イエス様の自己犠牲的で無条件な愛です。

そして

神様・イエス様はこの自己犠牲的で無条件な愛をもって、私たちが互いに愛し合うように命じておられます。

相手が何かしてくれる・してくれたから、愛するのではありません。

相手に何かしてもらうのを当てにして、愛するのでもありません。

損得勘定を抜きにして、相手の最高最善のために、自らの最高最善を提供するとき、そこには神様・イエス様の愛が満ち溢れます。

そして、その愛を受ける人々は、あなたがイエス様の弟子であることを知るようなります(ヨハネによる福音書13章34-35節)。

と言われても、

イエス様のようにお互いを愛し合うことは決して簡単なことではありません。

でも、だからこそイエス様は続くヨハネによる福音書14-16章において、

イエス様に代わるもう一人の「弁護者(新改訳では助け主)」である聖霊を遣わす

と約束しておられます(参照:ヨハネによる福音書14章15-17節)。

この聖霊は、私たちがイエス様の戒めを守ることができるように私たちを守り導く存在

です(参考:ヨハネによる福音書14章26節; 15章26節; 16章7-11節)。

そしてこの私たちが守るべき「イエス様の戒め」というのは、ヨハネ13-16章においては特にイエス様が愛してくださったように互いに愛し合うことです。

私たち人間の力だけでイエス様のように互いに愛し合うことは不可能です。

イエス様を信じる人の内に住む聖霊に助けを求めてください。
事あるごとにイエス様の十字架を覚え、神様・イエス様がどれほどあなたを愛してくださっているかを思い起こしてください。

どこから始めてよいか分からないとおっしゃるかもしれません。

けれども、難しく考える必要はありません。

愛することは相手を知ることから始まります。

まずは

目の前のその人に挨拶をして、世間話をするところから始めてみてください。

そして、

損得勘定を抜きにして、その人のために自分に何をできるか、イエス様ならどうするだろうかを祈りの中で考えてみてください。

聖霊の助けと導きによって、イエス様が愛してくださったように互いに愛し合うことができますように。

参考文献および注釈

  • Burge, Gary M. John. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2000.
  • Carson, D. A. The Gospel according to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
  • Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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