キリスト教(プロテスタント)の洗礼・バプテスマとは?受けないと救われない!?

キリスト教にあまり詳しくなくても「洗礼・バプテスマ」という言葉を聞いた事がある方は多いかもしれません。

日本人でありながら「ヨハネ」やら「パウロ」やら「ペテロ」といった怪しげな(?)カタカナの名前(洗礼名)をもらって、正式にクリスチャンになる儀式というイメージをもっている方もいるかもしれません。

もしくは、イエスを信じることはできたとしても、洗礼を受けると正式なクリスチャンとなって後戻りができなくなるから、洗礼を受けるのにはちょっと抵抗があるという方もいるかもしれません。

もちろん、「洗礼・バプテスマ」という言葉すら聞いた事がない方もたくさんいると思います。

と言うことで、今回のテーマは「洗礼・バプテスマの意味と目的・理由」

キリスト教(プロテスタント)における洗礼・バプテスマとは一体何か?
洗礼・バプテスマを受ける目的・理由は何か?
洗礼・バプテスマを受けないと救われないのか?

といったことを考えます。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

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洗礼・バプテスマの起源

広辞苑(第五版)によると「洗礼」について次のように説明されています。

洗礼…キリスト教で信者となるための儀式。全身を水中に浸し、または頭上に水をそそぐことによって、原罪を洗い浄め新たな生命によみがえることを象徴する。この際に受ける名を洗礼名という。バプテスマ。

出典:新村出記念財団『広辞苑 第五版』(岩波書店、2002年)

詳細は次節で扱いますが、上記の説明の最初に「キリスト教で信者となるための儀式」とありますから、クリスチャン(キリスト教)にとって洗礼・バプテスマというのは一生に一度だけ行う非常に重要な儀式となります。

が、実は、そんなに重要な儀式であるにも関わらず、

イエスの誕生以前に記された旧約聖書には「洗礼・バプテスマ」という言葉は出てきません。

「洗礼・バプテスマ」に近い表現として出てくるのは、宗教的な「汚れ」を洗い流す行為ぐらいです(例:レビ記11章24、32節;14章6-9節;15章5-27節;民数記19章17-22節)。

こうした「汚れ」を洗い流すという行為は、神道の「禊(みそぎ)」に似ていることからも納得できるように、古代ギリシャ・ローマの宗教においてはありふれたものだったようです。1

イエスが生きた時代のユダヤ教においてもまた、身をきよめることは非常に重要視されていました(参考:ルカの福音書11章38節;マルコの福音書7章1-4節)。2

ただし、こうした「身のきよめ」は日常的な生活の中で行われていた行為で、一生に一度だけ行われる「洗礼・バプテスマ」とは性質が異なります。3

なお、ユダヤ教においてもユダヤ人でない人々がユダヤ教に改宗するときに「洗礼・バプテスマ」に似た儀式が行われていたようです。が、紀元70年(イエスの死から約40年後)以前に行われていたかどうかは定かではないようです。4

一生に一度だけ行われるという意味で、キリスト教の「洗礼」に最も近いものはバプテスマのヨハネ(新共同訳では「洗礼者ヨハネ」)による洗礼です。

バプテスマのヨハネは、メシア(救い主)であるイエスが来る前の道を備える人物だと聖書は記しています(マルコの福音書1章2-4節;ルカの福音書1章17節)。5

参考まで、それまでのユダヤ教における身のきよめとバプテスマのヨハネによる洗礼との間の共通点と相違点は以下のようになります。6

  • 【共通点】
    • 全身を水に浸す
    • きよめの意味をもつ
    • ユダヤ人を対象としている
  • 【相違点】
    • ヨハネの洗礼・バプテスマは自分以外の人物が儀式を執り行う(ユダヤ教では自分自身で身をきよめる)
    • ヨハネの洗礼・バプテスマは一生に一度だけ行われる(ユダヤ教では日常的に身をきよめる)
    • ヨハネの洗礼・バプテスマには悔い改めることが必要で、その結果、罪の赦し(終末的なきよめ)が与えられる(ユダヤ教では特に悔い改めを必要としない儀式的な行為によって宗教的な身のきよめを得る)

ヨハネの洗礼・バプテスマは多くの点でキリスト教の洗礼・バプテスマと似ていますが、決定的に異なる点は以下になります。7

  • ヨハネの洗礼・バプテスマは罪の告白(悔い改め)が中心なのに対して、キリスト教の洗礼・バプテスマはイエス・キリストに対する信仰の告白(悔い改めも伴う)が中心となっている
  • キリスト教の洗礼・バプテスマは「父、子、聖霊の名において」授けられる(マタイの福音書28章19節)
  • ヨハネの洗礼・バプテスマは水によるものだが、イエスの洗礼・バプテスマは聖霊と火によるものである(ルカの福音書3章16節;比較:ヨハネの福音書3章33節)

なお、聖書には、

  • イエス自身がバプテスマのヨハネから洗礼・バプテスマを受けたこと(マタイの福音書3章13-17節;マルコの福音書1章9-11節;ルカの福音書3章21-22節)
  • イエス自身ではなくイエスの弟子たちが洗礼・バプテスマを授けていたこと(ヨハネの福音書4章1-2節)

が記されています。また、

イエスは十字架で死んでよみがえった後、弟子たちに洗礼・バプテスマを授けるようにと命じています(マタイの福音書28章19節;比較:使徒の働き2章38-41節)。

従って、キリスト教の創成期から洗礼・バプテスマが行われていたことが分かります。

洗礼・バプテスマの意味

前節では、洗礼・バプテスマがキリスト教の創成期から行われ続けていることをみました。今節では洗礼・バプテスマという儀式がどのようなものかを簡単に紹介しながら、洗礼・バプテスマに込められている意味をみていきます。

罪に死んで新しい命に歩む

前節で引いた広辞苑の説明に「全身を水中に浸し、または頭上に水をそそぐことによって」とあったように、今日のキリスト教(カトリック、正教、プロテスタント)における洗礼・バプテスマには大きく以下の二つの形式があります。

  • 全身を水中に浸す浸礼(しんれい)
  • 頭上に水を注ぎかける注礼(ちゅうれい)もしくは滴礼(てきれい)

このような形式の違いはキリスト教内の教団・教派の教えの違いからくるものですので、今回はその違いについて説明はしません。8

ただ、イエスの時代の洗礼・バプテスマはどうやら浸礼によるものだったようです。

その根拠としては、例えば以下が挙げられます。9

  • 「洗礼・バプテスマ」を表すギリシャ語の言葉(baptize)には「浸す、沈める」という意味がある
  • 人々が川で洗礼・バプテスマを受けていることが記されている(マルコの福音書1章5節など)
  • イエスは洗礼・バプテスマを受けた後、「水の中から上が」ったと記されている(マルコの福音書1章10節)

更に、全身を水に浸してから引き揚げるという動作自体に込められた意味があると聖書は語ります。その意味とは、

イエス・キリストが死んでよみがえられたように、洗礼・バプテスマを受けた者はイエスとともに罪に対して死んで、イエスとともによみがえって新しいいのちに歩む

というもの(参照:ローマ人への手紙6章1-8節;コロサイ人への手紙2章10-15節)。

ここの

「イエスとともに罪に対して死んだ」という部分を「全身を水に浸す」という行為が象徴的に表し、

「イエスともによみがえって新しいいのちに歩む」という個所を「水から引き揚げる」という行為が象徴している

ことになります。

しかしながら、「洗礼・バプテスマを受けた者はイエスと共に罪に対して死んで新しい命に生きる」といわれても分かりにくいと思いますので、もう少し簡単に説明すると

イエスをキリスト(救い主)と信じて付き従っていこうとする者は、それまでの(自分中心だった)古い生き方を捨てて、(神中心の)新しい生き方をする

ことを洗礼・バプテスマは象徴していると言えます(比較:コリント人への手紙第二5章17節)。10

なお、イエスを信じて洗礼・バプテスマを受け、イエスとともに新しい生き方を歩むようになったことを「キリストを着た」と表現している聖書個所もあります(ガラテヤ人への手紙3章27節;比較:コロサイ人への手紙3章9-14節)。11

罪からきよめられる

神道の「禊(みそぎ)」について、広辞苑(第五版)は以下のように説明しています。

禊…①身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること。②禊祓(みそぎはらえ)の略

出典:新村出記念財団『広辞苑 第五版』(岩波書店、2002年)

これはつまり、古来から日本人は水によって人間の罪または穢れを洗い清めることができるという概念・イメージをもっていることを示唆しています。

実際、「水に流す」という表現は、恐らくですが、水には過去の出来事(主に悪事や辛いこと、不快なこと)を洗い流すことのできる力があると信じていたことから生まれた表現ではないかと思います(私個人の勝手な解釈で、明確な根拠はありません)。

いずれにしても、

キリスト教(プロテスタント)における洗礼・バプテスマは「罪を洗い流す」、「罪からきよめられる」といったことを象徴的に表す

ものでもあります(参照:使徒の働き22章16節)。12

ただし、あくまでも「象徴的に表す」だけであって、

洗礼・バプテスマという行為だけで罪が洗い流されたり、罪からきよめられる訳ではありません。

私たちの罪がきよめられるのはイエス・キリストを救い主だと信じて付き従っていこうとする信仰によるものです(比較;コリント人への手紙第一6章11節;エペソ人への手紙5章26節)。13

神・イエス・聖霊に属する

前節で紹介したバプテスマのヨハネの洗礼とキリスト教の洗礼との相違点の中で、

キリスト教の洗礼・バプテスマは「父、子、聖霊の名において」授けられる(マタイの福音書28章19節)

というものがありました。

これは実際の洗礼式において、

洗礼・バプテスマを授ける人が「父、子、聖霊の名において、〇〇(洗礼・バプテスマを受ける人の名前)に洗礼・バプテスマを授けます」と宣言してから、洗礼者の全身を水中に浸してから引き上げる、もしくは頭上に水をそそぐ

ことを意味します。

が、もちろん、「父、子、聖霊の名において洗礼・バプテスマを授けます!」と言われたところで、その意味は現代の日本人には全く分かりません。

しかしながら、当時のユダヤ社会・文化において、

「父、子、聖霊の名において洗礼・バプテスマを受ける」というのは「父、子、聖霊に属する者となる」もしくは「父、子、聖霊に従う者となる」という意味合い

を持ちました(比較:コリント人への手紙第一1章12-13節)。14

ですから、公衆の面前で父、子、聖霊の名において洗礼・バプテスマを受けるというのは、

自分がクリスチャンになったこと(父なる神、子なる神、聖霊なる神というキリスト教の三位一体の神に属する者・従う者となること)を公に表明すること

になります。15

また、教会は「キリストのからだ」ともたとえられます(エペソ人への手紙1章23節)。 16

このため、父なる神、子なる神(キリスト・イエス)、聖霊なる神というキリスト教の三位一体の神に属する者・従う者となるということは、それと同時にキリストのからだである教会に属する者となるということにもなります(参照:コリント人への手紙第一12章13節)。

父、子、聖霊の名において洗礼・バプテスマを受けることは教会に属する者になることを象徴している

とも言えます。17

洗礼・バプテスマの目的・理由

The Great Commission, stained glass window, Cathedral Parish of Saint Patrick in El Paso, Texas By Lyricmac at English Wikipedia, CC BY 2.5, Link

最後に、

なぜ・何のために洗礼・バプテスマを受ける必要があるのか?

を考えます。

キリスト教(カトリック、正教会、プロテスタント)において、洗礼・バプテスマが非常に重要視される理由の最たるものは、

イエス・キリストが洗礼・バプテスマを授けるように命じている

ことが挙げられます。

イエスは十字架で死んでよみがえられた後、弟子たちに次のように命じています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。【マタイの福音書28章19-20節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉64頁18

ここでイエスは弟子たちに

  • あらゆる国の人々を(イエスの)弟子とする
  • 父、子、聖霊の名においてバプテスマを授ける
  • イエスが命じた全てのことを守るように教える

という三つのことを命じています。ですから、キリスト教において、洗礼・バプテスマを授ける・受けるというのは、ある意味、至上命令の一つとなります。

ここで注意すべき点が一つ

それは、

聖書が語る「救い」と洗礼・バプテスマとの間には直接的な関係はないということ

です。19言い方を変えれば、

洗礼・バプテスマを受けなくても救われる

とも言えます。私たちが救われるのは

それまでの自分中心だった生き方から神を中心とした生き方に改め(悔い改め)、イエスを自分の個人的な救い主として心の底から信頼して付き従おうと決断する

ことによります。20

言うなれば、洗礼・バプテスマというのは上記の決断を公に宣言する決意表明のようなもの。 21ですから、悔い改めてイエスを信じることなしに洗礼・バプテスマを受けることに意味・意義はありません。

洗礼・バプテスマを受けなくても救われることを端的に表している例として、イエスとともに十字架に架けられた罪人の一人にイエスが次のように語っている箇所があります。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。【ルカの福音書23章43節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉171頁

「パラダイス」というのは「地獄とは対照的に、正しい人が死んだ後に行く場所」を意味します(比較:コリント人への手紙第二12章4節;ヨハネの黙示録2章7節)。22

従って、この罪人は

十字架上で洗礼・バプテスマを受けることなく死んだ後、「正しい人が行く場所」にイエスとともにいること、即ち、聖書の語る「救い」を約束されている

ことになります。

洗礼・バプテスマを受けなくても救われるのなら、なんでわざわざ洗礼・バプテスマを受けなければならないんだ!?

という声が聞こえてきそうですが、その理由は、先に紹介したようにイエスが洗礼・バプテスマを受けることを命じているからです。

そして、イエスが命じているように洗礼・バプテスマを受けることは

「イエスを自分の個人的な救い主として心の底から信頼して付き従おうと決断」したことを周りに示す

ことにもつながります。

最後にもう一つ、私たちが洗礼・バプテスマを受けるべき理由・目的があります。

その理由・目的とは、悔い改めとイエスに対する信仰・信頼をもって、イエスの命に従って洗礼・バプテスマを受けることで、

洗礼・バプテスマを受ける人だけでなく、それを目撃しているクリスチャンたちも皆、神からの恵み・祝福を受けることができる

というもの。23

ここで注意していただきたいことは、

洗礼・バプテスマを受けるという行為そのものの中に神からの恵み・祝福がある訳ではない

ということです。

神からの恵み・祝福を受けるために大事なのはあくまでも「悔い改めの心と信仰」です。

心からの悔い改めとイエスに対する信仰・信頼をもって洗礼・バプテスマを受けるとき、

そこには、その人の神・イエスに対する従順さ・誠実さが表れています。

言うなれば、

そこには、心からの悔い改めと信仰によって罪が赦されて神の子供とされているという内的な変化が、洗礼・バプテスマを受けるという外的な行為となって表れています

それは神の恵みと祝福の成せる業ということができます(神の恵みと祝福によって、悔い改めと信仰に導かれ、神・イエスに対する従順さ・誠実さが育まれた)。

そして、その行為を目撃しているクリスチャンたちは、自分たちと同じ神の家族が増えたことに対する喜びに満たされます(比較:ルカの福音書15章7節)。

と同時に、洗礼・バプテスマの中に象徴されている「イエスと共に罪に死んで新しい命に歩むこと」、「罪からきよめられること」、「三位一体の神に属する者となること」が確かに現実のものとなっていることを再び確認(実感)することができます。

そこには、神からの恵みと祝福があふれています。

まとめ

今回のテーマは「洗礼・バプテスマの意味と目的・理由」についてでした。

キリスト教の洗礼・バプテスマというのは、キリスト教の創成期(イエスの生前)からイエスの弟子たちによって行われていました(ヨハネの福音書4章1-2節)。

また、イエスは十字架で死んでよみがえった後、弟子たちに洗礼・バプテスマを授けるようにとも命じています(マタイの福音書28章19節;比較:使徒の働き2章38-41節)。

キリスト教にとって洗礼・バプテスマは非常に重要な儀式の一つだということが分かります。

この洗礼・バプテスマには大きく以下の二つの形式があります。

  • 全身を水中に浸す浸礼(しんれい)
  • 頭上に水を注ぎかける注礼(ちゅうれい)もしくは滴礼(てきれい)

ただ、イエスの時代の洗礼・バプテスマは浸礼によるものだったようで、

  • 「全身を水中に浸す」という行為には「イエスとともに罪に対して死んだ」こと
  • 「水から引き揚げる」という行為には「イエスともによみがえって新しいいのちに歩む」こと

が象徴的に表されています(ローマ人への手紙6章1-8節;コロサイ人への手紙2章10-15節)。

もう少し砕けた表現を用いると、洗礼・バプテスマは

イエスをキリスト(救い主)と信じて付き従っていこうとする者は、それまでの(自分中心だった)古い生き方を捨てて(神中心の)新しい生き方をする

ことを象徴していると言えます(比較:コリント人への手紙第二5章17節)。

また、

キリスト教(プロテスタント)における洗礼・バプテスマは「罪を洗い流す」、「罪からきよめられる」といったことを象徴的に表す

ものでもあります(参照:使徒の働き22章16節)。

ただし、私たちの罪がきよめられるのはイエス・キリストを救い主だと信じて付き従っていこうとする信仰によるものです(比較;コリント人への手紙第一6章11節;エペソ人への手紙5章26節)。

洗礼・バプテスマという行為だけで罪が洗い流されたり、罪からきよめられる訳ではありません。仮に

洗礼・バプテスマを受けなくても罪の罰からは救われます。

私たちが救われるのは

それまでの自分中心だった生き方から神を中心とした生き方に改め(悔い改め)、イエスを自分の個人的な救い主として心の底から信頼して付き従おうと決断する

ことによるからです。

洗礼・バプテスマを受けなくても救われるにもかかわらず、洗礼・バプテスマを受ける必要があるのは、イエスが洗礼・バプテスマを受けることを命じているからです(マタイの福音書28章19節)。

なお、洗礼・バプテスマを授けるときはイエスが弟子たちに命じたように「父、子、聖霊の名において」授けます(マタイの福音書28章19節)。

公衆の面前で、イエスが命じたように父、子、聖霊の名において洗礼・バプテスマを受けるというのは、洗礼・バプテスマを受けた人が

  • クリスチャンになったこと(父なる神、子なる神、聖霊なる神というキリスト教の三位一体の神に属する者・従う者となること)
  • キリストのからだである教会に属する者となること(コリント人への手紙第一12章13節)
  • イエスを自分の個人的な救い主として心の底から信頼して付き従おうと決断したこと

を公に表明することになります。と同時に、

心からの悔い改めとイエスに対する信仰・信頼をもって洗礼・バプテスマを受けた人はもちろん、それを目撃しているクリスチャンたちも皆、神からの恵み・祝福を受ける

ことができます。ここでも大事なのは、洗礼・バプテスマを受けるという行為ではなく、あくまでも

悔い改めの心と信仰

です。

参考文献および脚注

  • Beasley-Murray, G. R. “BAPTISM.” Edited by David F. Wright, Sinclair B. Ferguson, and J. I. Packer. New Dictionary of Theology. Downers Grove, Ill.: IVP Academic, February 1988.
  • ———. “BAPTISM.” Edited by Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid. Dictionary of Paul and His Letters: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship. Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993.
  • Dunn, J. D. G. “BAPTISM.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, and J. I. Packer. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
  • Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
  • FAPE, M. O. “BAPTISM.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • Ferguson, E. “BAPTISM.” Edited by Joel B. Green, Jeannine K. Brown, and Nicholas Perrin. Dictionary of Jesus and the Gospels. Downers Grove, Ill.: IVP Academic, December 2013.
  • Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Ryken, Leland, James C. Wilhoit, and Tremper Longman III, eds. “BAPTISM.” Dictionary of Biblical Imagery. Downers Grove, Ill.: InterVarsity Press, December 1998.
  • 八木谷涼子. 『なんでもわかるキリスト教大事典』. 東京: 朝日新聞出版, 2012.
  1. E. Ferguson, “BAPTISM,” ed. Joel B. Green, Jeannine K. Brown, and Nicholas Perrin, Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, December 2013), 66.
  2. イエスが生まれる200年ほど前から敬虔なユダヤ人たちは身をきよめていたことが分かっています。エルサレムの裕福な家にはきよめのための浴槽もありました。Leland Ryken, James C. Wilhoit, and Tremper Longman III, eds., “BAPTISM,” Dictionary of Biblical Imagery (Downers Grove, Ill.: InterVarsity Press, December 1998), 72.
  3. ユダヤ教の一派であるクムラン教団では毎日、身をきよめることを教えていました。G. R. Beasley-Murray, “BAPTISM,” ed. David F. Wright, Sinclair B. Ferguson, and J. I. Packer, New Dictionary of Theology (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, February 1988), 69–70.
  4. 紀元70年以降のユダヤ教の文献には改宗の儀式に必要なものとして、割礼と洗礼(全身を水に浸すこと)と神殿に供えるいけにえの三つが記されています。Ferguson, “BAPTISM,” 66–67.
  5. ちなみに、バプテスマのヨハネの母エリサベツとイエスの母マリアとは親戚関係にあります(ルカの福音書1章36節)から、バプテスマのヨハネとイエスは親戚同士となります。
  6. 詳細は下記を参照。Ferguson, “BAPTISM,” 67.
  7. 詳細は下記を参照。ibid.
  8. 洗礼の形式の違いについて、興味のある方は例えば下記を参照。八木谷涼子, 『なんでもわかるキリスト教大事典』 (東京: 朝日新聞出版, 2012), 236–237頁.
  9. 詳細な説明は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 967–968.
  10. 詳細な説明は下記を参照。M. O. FAPE, “BAPTISM,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 396; G. R. Beasley-Murray, “BAPTISM,” ed. Gerald F. Hawthorne, Ralph P. Martin, and Daniel G. Reid, Dictionary of Paul and His Letters: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship (Leicester, England; Downers Grove, Ill: Inter-Varsity Pr; InterVarsity Pr, 1993), 62–63.
  11. 詳細は下記を参照。Beasley-Murray, “Dictionary of Paul and His Letters,” 62.
  12. Ibid., 61.
  13. 詳細な説明は、例えば下記参考文献の「使徒の働き22章16節」の注解を参照。David Peterson, The Acts of the Apostles, The Pillar New Testament Commentary (Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009).
  14. 詳細は下記を参照。Beasley-Murray, “Dictionary of Paul and His Letters,” 60–61; J. D. G. Dunn, “BAPTISM,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 120.
  15. キリスト教の三位一体について、興味のある方は下記のブログ記事を参照ください。「キリスト教(聖書)の三位一体説とは何か?聖書には書いてない!?矛盾してる?」
  16. キリスト教の教会について、興味のある方は下記のブログ記事を参照ください。「キリスト教の教会とは?どんなところ?何するの?―教会の性質と役割―」
  17. 詳細は下記を参照。FAPE, “BAPTISM,” 396; Beasley-Murray, “Dictionary of Paul and His Letters,” 64.
  18. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
  19. 詳細な解説は、例えば下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 1025–1027.
  20. キリスト教(聖書)の語る「救い」について、興味のある方は下記のブログ記事をご覧ください。「『信じる者は救われる』の語源はキリスト教(聖書)!?言葉の意味は?」 「イエス・キリストを信じると何が起こる・変わる?―キリスト教(聖書)の救いの意味―」 「イエス・キリストを信じて終わりじゃない!?―キリスト教(聖書)の救いの完成―」
  21. たとえるならば、上記の決断をすることは婚姻届けに署名して役所に届け出ること、洗礼・バプテスマを受けることは結婚披露宴をすることと言えるかもしれません。
  22. 下記参考文献の「ルカの福音書23章43節」の注解を参照。David E. Garland, Luke, ed. Clinton E. Arnold, The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011).
  23. 詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 981.
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