礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。
- 日時:2020年8月16日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神からの祝福」
- 聖書個所:創世記49章1-28節1
導入
今日の個所では、死を目前にしたヤコブが彼の12人の息子たち全員に対して祝福の言葉を語っています。
この祝福の内容は、そのほとんどが12人の息子たちそれぞれの人生に関するものというより、彼らの後に出てくるイスラエルの12部族に関するものとなっています(参照:創世記49章28節)。
言うなれば、彼らの子孫たちがこれから後、どのような運命をたどるかを預言したものです。
今回の個所を通して、神様の祝福とはどのようなものかを共に学びたいと思います。
特別な祝福を受けるユダ
今日の聖書個所を読むと、ユダとヨセフに関する部分が他の兄弟たちに比べて非常に長いことに気付かれると思います。
このことから、ユダとヨセフだけがある種の特別扱いを受けていることが分かります。
それにしても、ヤコブにとってのお気に入りであったヨセフ(参考:創世記37章3節)はともかく、
のは不思議です。
しかも、ユダに関する祝福には彼の子孫が王の位に就くことがほのめかされています(49章10節)。12人の息子たちの中で、
です。
特別扱いの人間的理由
理由の一つとして考えられるのはユダの血筋です。
ユダはヤコブが最初に結婚したレアとの間に生まれた四男でした(創世記29章31-35節)。
しかし、
上の三人の兄と比べて、
と言えます。
というのも、兄弟たちが食料を求めてエジプトに下って行ったとき、最終的にヨセフが自分の身分を兄弟たちに暴露したのはユダの捨て身の願いを聞いたからでした(44章18-34節)。
ユダが自分の身を危険にさらしてでもベニヤミンやヤコブ、ひいては家族全員の命を救おうとしなければ、ヨセフは自分の身分を兄弟たちに明かさなかったかもしれません。
そうなれば、
でしょう。
言うなればヤコブは、上の三人の息子たちとは対照的に、4人目の息子ユダに対しては「ヨセフとの再会を可能にした立役者」として感謝していたとも考えられる訳です。
それだからヤコブはユダに対してヨセフに勝るとも劣らない祝福を与えた、というのは人間的に考えれば有り得なくもない話です。
けれども、
神からの祝福を受ける理由
この疑問・問題に対する答えを見つけようとするときに非常に重要な示唆を与えてくれるのが創世記38章です。
というのも、ユダの中に起きた人格的変化を考えるとき、38章の話の内容が非常に重要な役割を果たすからです。
確かに、ユダが自らの命を犠牲にしても父ヤコブや弟ベニヤミンを救おうとしたため、ヨセフは兄弟たちに自分の身分を明かしました。
このユダの自己犠牲的な態度・姿勢は神様・イエス様の愛に通じるものがあります。
しかしながら、
むしろ、
でした(創世記37章26-27節)。
また、
ところが、そんな彼が
のです(参照:創世記38章12-26節)。
その出来事の最後にユダは自らの罪を告白しています(38章26節)。
のだと思います。そして、この
ではないかと思います。血筋によるのでもなく、親に対して何かを行った・行わなかったからでもなく、
のではないでしょうか。
結論
今日の聖書個所には臨終の床にあるヤコブが自分の12人の息子たちを祝福する場面が描かれています。
その中でも特に、王の位に就く者が出てくることが示唆されているユダへの祝福の言葉は別格と言えます。
ユダだけが特別な祝福を受けた主な理由は彼の内面に起きた人格的変化にあったと思われます。
のです。
そんな彼の生き方の中に私たちは、イエス様が十字架上で示してくださった自己犠牲の愛を認めることが出来ます。この意味において、ユダの子孫からイスラエル民族の王となる者、ひいてはメシアが生まれることになったとしても不思議ではありません。
また、自分のためではなく神様や人のために生きようとしたユダが神様からこの上ない祝福を受けたことの中に、聖書が語る「祝福」の本質が見て取れるとも思います。
です。
天地万物を創造されたとき、
そして、
そこには不正や搾取はありません。
恐怖や暴力もありません。
です。そのような世界こそが本当の意味で「祝福」された世界だと聖書は語るのです。
ところが、ご存知のように、
アダムとエバが神様の言いつけに従わなかったが故に罪がこの世に入り、神と人との関係が壊れ、大地は呪われ、死がこの世を支配するようになりました。
訳です。
が、しかし、
神様は人間が失った祝福を回復すべく、一方的な恵みによってアブラハムを選び、彼を祝福しました。
そして、
訳です(創世記12章1-3節)。最終的に
この世の全てを本来あるべき姿に戻そうとしておられるのです。
しかし、そのためには
必要がありました。そして
のです(参考:フィリピの信徒への手紙3章21節;コリントの信徒への手紙第一15章20節)。
です。けれども、今現在もこの地上において、その神様の祝福の一端を味わい知ることが出来ます。
それはユダのように、
です。
です(エフェソの信徒への手紙1章3-7節)。
です(コリントの信徒への手紙第二3章18節;コリントの信徒への手紙6章19節)。
です(マタイによる福音書28章20節)。
この世が与える「祝福」は全て有限で一時的なものです。
家や車、宝石や衣服、地位や名誉、健康や家族、親友などなど。この世の誰もが欲しいと願うようなものは全て、私たちが死ぬときには手放さざるを得ないものばかりです。
しかし、
私たちが死んで終わるようなものではありません。
たとえこの世で死ぬことがあったとしても、
ようになるとイエス様は約束しています(マタイによる福音書19章28-30節)。
と願っていらっしゃいます。
神様の祝福がありますように。
参考文献および注釈
- Mathews, Kenneth. Genesis 11:27-50:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005.
- Walton, John H. Genesis. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
- Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.