礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2021年12月26日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「十分な主の恵み」
- 聖書個所:コリントの信徒への手紙二12章7-10節1
導入
今日は2021年最後の日曜日となります。
皆さんにとって2021年はどのような一年だったでしょうか。
それぞれの一年がどのようなものであったとしても、世の中全体がまだまだ良くも悪くも新型コロナの影響下にあることは間違いないと思います。
この新型コロナの問題によって明らかにされたことの一つは、
ものだということです。今日は、
を考えたいと思います。
十分な主の恵み
今日の聖書個所の少し前から手紙の作者パウロは「自分の弱さを誇る」ことをテーマとして話を進めています(コリントの信徒への手紙二11章30節)。
しかし、その更に前の10章17節でパウロは、
と勧めています。「主を誇る」というのは、
ことと言えます。この話の流れの中でパウロは、
と言っている訳です。
この意味で、パウロは自分の「弱さ」として、普通であれば誇ることができないであろう苦難や困難(11章23-28節)、屈辱的な経験(11章32節)を挙げています。
それらに続けてパウロは12章7節で
を「弱さ」の一つとして挙げています。
この「棘」が具体的に何を指すのかは、残念ながら、定かではありません。
いずれにしてもパウロは、この棘を取り除いてもらうように主に三度もお願いしました(8節)。
けれども、そんなパウロに神様は
私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。【コリントの信徒への手紙二12章9節】
出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)333頁
とお答えになりました。
新約聖書の中に登場する人物の中で、パウロは知る人ぞ知る「有名人」です。
パウロのように熱心かつ献身的に神と人に仕えた人の人生はさぞかし喜びと幸せに満ちたものだったと想像する方は多いかもしれません。
もちろん、パウロはその人生の中で主にある喜びや祝福を感じてはいたはずです。
しかし、そんな
実際、コリントの信徒への手紙二11章23-28節でパウロは様々な苦難・困難に遭ったことを記しています。
これらの苦しみに加えて、彼の体には「棘」が与えられていました。
その苦しみ・痛みから解放されることをパウロは神様に3度も願いました。
しかし、神様は苦しみ・痛みの只中にあるパウロにおっしゃるのです。
主が共にいる恵み
パウロは宣教の地で多くの妨害や迫害を経験しました(例:使徒言行録16章19-24節; 17章4-5, 13節; 18章6節)。
そのため、伝道活動を続けることに恐れを感じていたパウロに対してイエス様は
(使徒言行録18章9-10節)と語られました。
というのは神様から与えられた恵みです。
私たちは私たちの努力や行いに依らず、
そのおかげで
ようになった訳です(エフェソの信徒への手紙3章12節;ヘブライ人への手紙10章19-23節)。と同時に、
ようになりました。
のです。
主と共に生きる恵み
イエス様を信じる信仰によって、私たちは罪赦され、神様に属する者(聖なる者)とされます。と同時に、私たちは
ことが約束されています(ローマの信徒への手紙8章14-23節;コリントの信徒への手紙一15章20-26節;ヨハネの黙示録21章1-4節)。
この世においては誰しも苦しみや悲しみ、痛みから逃れることはできません。
しかし、イエス様が再びこの世に来られるとき、イエス様を信じる者はイエス様が復活されたときにもっておられた「栄光の体」をもってよみがえります(フィリピの信徒への手紙3章21節)。
そして、苦しみも悲しみも痛みもなく、死ぬことさえない新しい世の中で神様と共に生きるようになります。
これが聖書の語る「救い」が完全に実現された状態です。
この世においては確かに苦しみがあります。
悲しみがあります。
痛みがあります。
しかし、それらの
と聖書は約束しています(参照:コリントの信徒への手紙二4章17-18節)。この約束もまた、私たちの努力や行いによって与えられたものではなく、主の恵みによるものです。
結論
この世の苦しみや悲しみ、痛みの極致にあったとしても、神様がもう既に十分に与えておられるという「恵み」。その一つは、
という恵みです。もう一つは、
という恵みです。これらは
です。ただし、恵みによって私たちを救ってくださった神様は、私たちがその救われた人生を自分勝手に用いることを望んではおられません。
そうすることで、
ことを神様は願っていらっしゃるのです(参考:ペトロの手紙二3章8-9節)。
とはいえもちろん、この世を神様の愛と恵みで満たすことは簡単なことではありません。
パウロのようにとまではいかないまでも、様々な苦しみや悲しみ、痛みを経験すると思います。
でも、忘れないでください。
私たちの力では到底乗り越えることができないような苦しみや悲しみ、痛みに遭遇したとしても、
のです。
それが神様の望んでいらっしゃることです。
また、私たちがこの世で苦しみや悲しみ、痛みを経験するとき、私たちはより一層、自分の無力さ・至らなさを思い知らされるようになります。
より一層、神様の助けを求めるようになります。
より一層、神様に祈るようになります。
ようになります。その結果、
ようになります(比較:ヘブライ人への手紙12章1-11節)。
それが神様の望んでいらっしゃることです。
さらに、私たちがこの世で経験する苦しみや悲しみ、痛みは決して無駄にはなりません。
同じような苦しみや悲しみ、痛みを経験している人に心から寄り添うことができるようになるからです。
苦しみや悲しみ、痛みの只中にある時、人からの語り掛けはなかなか届きません。
状況が良くなった後で振り返ってみても、誰が何を話してくれたかはほとんど覚えていないものだと思います。
でも、
苦しみで気が狂いそうになる時、
悲しみに押しつぶされてしまいそうになる時、
痛みで胸が張り裂けそうになる時、
のことは覚えているものだと思います。
それが本当の意味で「寄り添う」ことだと私は考えます。
です(参考:ヘブライ人への手紙2章17-18節)。
そのイエス様は
と願っていらっしゃいます。
参考文献および注釈
- Guthrie, George H. 2 Corinthians. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2015.
- Hafemann, Scott J. 2 Corinthians. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 2000.