「受け入れ難い神の業」:2025年2月23日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2025年2月23日(日)
  • 場所:さいたま国際キリスト教会
  • 説教タイトル・テーマ:「受け入れ難い神の業」
  • 聖書個所:ルカによる福音書4章16-30節1
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導入

今日は質問から始めたいと思います。

皆さんは人生において「神様の働き」を感じたことがあるでしょうか?

もしくは、

どのようなときに「神様の働き」を感じることができるでしょうか?

どのようなときに神様の働きを感じるかは人それぞれだと思いますが、分かり易いのは、ある人が救われた・イエス様を信じたという「救いの証し」を聞いたときかもしれません。

今日の聖書個所には

神様・イエス様がどのように働かれるか

が記されています。今日はこの個所を通して、神様・イエス様がどのように働かれるかを再確認していきたいと思います。

ユダヤ人に期待された神の業

今日の聖書個所にはイエス様の故郷ナザレで起きた出来事が記されています。

このときまでにイエス様はガリラヤ地方で様々な働きをなされていました。

そして、その噂はガリラヤ地方一帯に広まり、イエス様は群衆から称賛を受けていました(ルカによる福音書4章14-15節)。

そんな中、イエス様は故郷のナザレに帰り、安息日に会堂に入られます。

そして、会衆の前でイザヤ書の言葉を朗読されました(ルカによる福音書4章18-19節;比較:イザヤ書42章7節; 58章6節; 61章1-2節)。

このイザヤ書の預言は

その昔、バビロン捕囚によって捕らわれの身となっていたイスラエル民族に対する救いの言葉

と解釈ができます。そこから転じて、イエス様の時代のユダヤ人たちは、このイザヤ書の言葉を

ユダヤ人に対する終末的な救いの預言

と理解していました。このため、その場にいた人々は

イエス様を通してユダヤ人に対する神様の救いの御業がなされていくと期待した

と思われます(参考:ルカによる福音書4章14-15, 21, 23節)。

異邦人に成された神の業

そんな人々にイエス様は旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの話をしています(ルカによる福音書4章24-27節)。

エリヤは、大飢饉が起こったとき、食べる物に困っていた多くのやもめの中で、シドン地方のサレプタに住むやもめのところにだけ遣わされました(25-26節)。

そして、神様の奇跡的な業によって、彼女とエリヤ、そして彼女の家の者は皆、食べる物に困ることがなかったと列王記上17章8-16節に記されています。

ここで注目すべきことはシドン地方のサレプタに住むやもめは恐らく、異邦人であったということです。

つまり、ここで

神様は預言者を通して、ユダヤ人ではなく異邦人に対して奇跡的な業を行って救いの業を成された

ことになります。

エリシャの場合、彼はユダヤ人ではなくシリア人ナアマンの重い皮膚病を清めました(ルカによる福音書4章27節;列王記下5章1-19節)。

ここでも神様は預言者を通して、ユダヤ人ではなく異邦人に対して奇跡的な業を行って救いの業を成された訳です。

受け入れ難い神の業

神様が預言者を通して、ユダヤ人ではなく異邦人に対してその救いの業を成されるというのは

ナザレに住むユダヤ人たちにとっては到底、受け入れ難いこと

でした。そのため、

ユダヤ人たちは非常に腹を立て、イエス様を殺そう

とまでしました(ルカによる福音書4章29節)。ここには、

神様の思い・考えが人間の思い・考えと大きく異なる

ことがはっきりと示されています(参考:イザヤ書55章8-9節)。

神様の思い・考えが人間の思い・考えと大きく異なるというのは、先に見たイザヤ書の預言の中身を見ても分かります。

事実、ルカによる福音書4章18節には

神様の救いの福音(良い知らせ)が貧しい人に告げ知らせられる

ことが記されています。しかしながら、当時の人々にとって、

貧しい人というのは救いとは程遠い存在

にあると考えられていました。

というのも、当時は貧しい人は神様に祝福されていない人、即ち、律法を守らない罪人と考えられていたからです。

貧しい人は罪人、だから神様に祝福されない、即ち、救いとは程遠い存在という訳です。

けれども、これはいわゆる「行いによる救い」に他なりません。

律法を守るという行いによって神様の祝福を受けるかどうか、ひいては救われるかどうかが決まるという因果応報的な考え方です。

世の中は、こうした因果応報的な考え方が主流です。

でも、この

「行いによる救い」は聖書の語る福音(良い知らせ)である「信仰による救い」とは相反する

ものです。ここにも、神様の思い・考えは人間の思い・考えと大きく異なっていることが見て取れます。

結論

イエス様は確かに神様の救いの御業を成すためにこの世に来られました。

しかし、

神様の思い・考えは私たち人間の思い・考えをはるかに超えたもの

です。

イエス様の時代のユダヤ人たちは、神様の救いの御業はユダヤ人たちのみに対して成されていくと考えていました。

けれども、イエス様の時代よりもはるか昔のエリヤやエリシャの時代から、

神様はユダヤ人たちだけでなく異邦人たちも含めた救いの御業を成されておられました。

にもかかわらず、今日の個所に出て来るナザレのユダヤ人たちはイエス様によってもたらされようとしている

全人類に対する神様の救いの御業を受け入れることができませんでした。

救いに限らず、

神様の御業というのはしばしば、私たちが想像や期待していたかたちとは全く異なるかたちで成し遂げられていきます。

私たち自身は意味がなかった、無駄だったと感じるような出来事や体験があったとしても、

神様は、そのような無意味・無駄だと感じるような出来事や体験さえも用いて、神様の御業を成し遂げることができる

お方です。

神様は万物を統べる絶対的な主権をもったお方

だからです(参考:ローマの信徒への手紙8章28節)。

皆さんの中には今、とてもつらい状況に置かれている人がいるかもしれません。

辛いことや悲しいこと、苦しいことの最中にあると、目の前の出来事で精一杯になってしまい、神様の御業が分からなくなってしまいます。

神様の御声も聞こえなくなってしまいます。

でも、その出来事が落ち着いて、大分後になってから

その出来事を振り返ってみると、その出来事の中にも神様が確かに働いておられたことに気付かされる

ことは多いと思います。

ですから、今のその辛く悲しく苦しい状況において、

神様がこれまでに成してくださった御業を思い起こしてみてください。
神様は、これまでと同じように、あなたの想像・期待をはるかに超えた神様の方法で、神様の時に従って、神様の御業を必ずや成していかれます。

神様がこれまでに成してくださった御業を思い出せないという方は

イエス様の十字架に目を向けてみてください。

救い主が十字架にかかって死んでしまうというのは、イエス様の弟子も含め当時の人々は誰一人、受け入れることができませんでした。

しかし、

神様はこの受け入れ難い出来事を通して、その救いの御業を成し遂げられました。
神様は、この十字架の御業のように、あなたの想像・期待をはるかに超えた神様の方法で、神様の時に従って、神様の御業を必ずや成し遂げていかれます。

自分の知恵や力だけでなく、イエス様の十字架に表わされている

神様の絶対的な主権により頼んでみてください。

受け入れ難い神様の救いの御業として、今日の聖書個所を通して、「信仰による救い」についても触れました。この

「信仰による救い」という神様の御業はあなたにとって受け入れ難いものでしょうか?

誤解のないように言っておきますが、神様の救いの御業というのも、正確に言えば、「良い行いをすれば良い結果、悪い行いをすれば悪い結果」といった因果応報的な考えに基づいています。

というのは、

神様は確かに、私たちが行った悪いこと、即ち、罪に対して「死」という悪い結果(罰)をもたらされる

からです。ただし、この

罪に対する罰を私たちの身代わりに背負ってくださったお方がいる

と聖書は語ります。それが他でもない

救い主なるイエス様

です。

私たちが行いではなく信仰によって救われるのは、イエス様が十字架の上で私たちの悪い行いに対する罰を代わりに受けてくださったから

です。

私たちは皆、神様の目から見れば、神様の望まれることを完璧完全に成し遂げることができない、弱く不完全で罪深い存在です。

にもかかわらず、

神様はそんな弱く不完全で罪深い私たちをその身に代えても惜しくないほどに愛してくださっている

のです。

世の中においては、あなたが何をできるのか、何をしたのかよって、あなたの価値が決まります。

対して、神様は

あなたが何をできるのか、何をしたのかに関係なく、あなたの存在そのものにこの上ないほどの価値がある

とおっしゃってくださいます。

あなたはもう既に神様にこの上ないほどに愛されています。

イエス様があなたの罪の罰を背負って、十字架で死んでくださったのは、あなたが何をできるのか、何をしたのかとは関係ありません。

ただ、

あなたの存在そのものがこの上なく愛おしいから、

あなたがあなた自身の罪のために滅んでしまうのを見過ごすことができなかったから、

子なる神イエス様はあなたを滅びから救うため、自らがその全ての咎を背負って十字架で死んでくださった

のです。

あなたはそのままで神様に愛されています。

受け入れられています。

必要とされています。

この神様の愛を一身に受け、神様・イエス様が愛してくださっているように、周りの人々を愛することができますように。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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