前回、前々回の記事では、キリスト教(聖書)の教える「罪」について書きました。
その中で「人はみな罪人」という表現が何回か出てきました。実際、
キリスト教(聖書)の神が要求する善悪(罪)の基準は非常に高く、
人間は生まれながらに罪深い性質(原罪、げんざい、the original sin)をもっていて、
周りの生活環境や悪魔・悪霊の影響・誘惑も受けるため、
「罪」のない生活・人生は事実上、不可能
であろうことをみました。
となると、です。次に気になってくるのは、恐らく、
といったことだと思います。
という訳で、今回のテーマは「罪(罰)に程度の大小はあるのか?」。特に罪の種類と結果(罰)について考えます。
今回の話の流れ(目次)は以下の通り。
罪の罰
罰則の違い
下記の記事ではキリスト教(聖書)の「罪」の定義とその本質を考えました。
そこでは「罪」を以下のように定義しました。1
また、「罪」の本質(根本・根源にあるもの)は
と言えることをみました。2
これらの表現はかなり抽象的なものですが、聖書には具体的な罪の内容が細かく記されているところがあります。それは例えば「律法」と呼ばれる個所。
それらの律法には「―をしてはならない」といった掟・定めが記されているだけでなく、罪を犯したときの罰則も記されています。
罰則としては、例えば、以下のものが挙げられます。
- 弁償、罰金(例:出エジプト記21章18-19、22節)
- イスラエル民族の共同体からの追放(例:民数記9章13節)
- 死刑(例:出エジプト記21章14、15、16、17節)
中でも意図的に罪を犯す(律法を破る)人は、神を冒涜する者として、その罪の内容によらず厳しく罰せられています(民数記15章29-31節)。
このような
であろうことが分かります。3
実際、もっと直接的に罪の大小もしくは律法に定められた掟・戒めの重要度の大小に言及している聖書個所もあります(例:エゼキエル書8章6、13、15節;マタイの福音書5章19節;23章23節;ヨハネの福音書19章11節)。4
これらの罰則の違いと犯した罪の内容とを見比べてみると、概して、罰則の厳しさは以下の二つに比例していることが分かります。5
- 周りの人々に与える(悪)影響の度合い
- 神に対する不敬の度合い
ここで非常に大事なことが一つ。それは、上述のような罪(罰)の違いはあくまでも、
だということ。
なのです。
究極的な罰
では、神の目から見たときの罪の罰は何かというと、それはみな等しく
となります。
パウロはローマに住むクリスチャンに向けて次のように書いています。
罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。【ローマ人への手紙6章23節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉307頁6
ここに出てくる「死」というのは、直ぐ後にある「永遠のいのち」と対比されていますので、神との関係(絆)が断絶してしまうという「永遠の死(霊的な死)」を意味していると考えられます(比較:創世記2章17節)。7
ただ、パウロはこの少し前のローマ人への手紙5章12節において、最初の人アダムの罪によって「死」がこの世に入ってきたと言っていて、そこでの「死」は霊的な死だけでなく肉体的な死の意味も含まれていると考えることができます。8
従って、「罪の報酬は死です」とパウロが語るとき、その「死」には霊的な死だけではなく肉体的な死も大前提として含まれていると言えるでしょう。
また、ヤコブという人物は神の目から見た罪の大小について次のように記しています。
律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。【ヤコブの手紙2章10-11節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉460頁
ここでヤコブは、たくさんある律法の中の一つでも犯すなら、律法全ての違反者とみなされると非常に厳しいことを言っています(比較:ローマ人への手紙5章16節)。
つまり、
ということになります。
罪の赦し
赦される罪
前節の最後で、
であることをみました。
しかし、ということは、です。神の前に「人はみな罪人」であるとするならば、
という絶望的な状況になってしまいます。が、
と聖書は語ります。そして、
とも語るのです。では、
それは、
神のひとり子であるイエス・キリストが、
私たちの受けるべき罪の罰(死)を身代わりとして引き受け十字架上で死んでくださったこと、そして死んだ後によみがえった(復活した)ことを心から認め、
イエスを信じ信頼して神の望まれるように人生をやり直そうと決心する(悔い改める)こと
です。そして、イエス・キリストが自分の罪の身代わりとして死んでよみがえったことを信じ、神の望まれる生き方をしようと決心をした(悔い改めた)とき、
ここで「赦される罪」とは私たちが犯した全ての罪のことですので、
ということになります。にもかかわらず、非常に不思議(不可解?)なことに聖書の中には「赦されない罪」があるとも記されているのです。
次項では、聖書に記される「赦されない罪」とは何かについてみていきます。
赦されない罪
「赦されない罪」について、聖書には以下のように記されています(比較:マタイの福音書12章31-32節;ルカの福音書12章10節)。
「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。【マルコの福音書3章28-30節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉71頁[/note]
ここで最初に記されている言葉はイエスの言葉、「彼ら」というのは旧約聖書に精通していた「律法学者たち」のことです。
また、「人の子ら」というのは一般的に「人々」のことを指す表現です。10
従って、イエスは律法学者たちに向かって
と言っている訳です。それでは、
その答えのヒントとなるのが、イエスの言葉の後にマルコの福音書を書いた作者が付け足した一言。
このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
実際、この少し前の個所で律法学者たちが、イエスは悪霊どものかしらベルゼブルにつかれていて、悪霊のかしらの力で悪霊たちを追い出していると非難していたことが記されています(マルコの福音書3章22節)。
つまり、律法学者たちは、
と文句を言っていた訳です。律法学者たちのこの発言は決して、状況を客観的で冷静に判断した結果のものではなく、かなり主観的かつ悪意に満ちた言葉でした。
というのも、それまでにイエスと律法学者たちの間には聖書の教えに関する意見の対立があり(参照:マルコの福音書2章1-28節)、その結果、彼らはイエスを憎み、難癖をつけてイエスの評判を陥れようとしていたからです(参考:マルコの福音書3章2、6節)。
そんな彼らに対してイエスは「聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められ」るという忠告を発しているのです。
と、少し話が込み入ってきましたが、要するに、ここでイエスの語る「赦されない罪」というのは、
と言えます。
ところで、この「赦されない罪」を犯している人たちというのは、よくよく考えてみれば、
とも言えます。その意味において、確かに「赦されない罪」だと理解することができそうです。11
別の言い方をするならば、
と思います。
なぜなら、彼らと同じかそれ以上に聖霊を冒涜していた(聖霊の働きに反抗していた)はずであろう人物が罪赦されてクリスチャンとなっているからです。
その人物とはパウロです。12
パウロは熱心なユダヤ教徒で、クリスチャンたちを迫害して殺そうとまでしていました(参照:使徒の働き8章3節;テモテへの手紙第一1章13-15節)。
しかし、彼は復活したイエスに出会い、クリスチャンへと変えられてしまったのです(参照:使徒の働き8章3節;9章1-20節;ガラテヤ人への手紙1章23節;コリント人への手紙第一15章8-9節) 。
「赦されない罪」に関するイエスの言葉について、もう一つ大事なことがあります。
それは、このイエスの言葉は、もう既にイエスを信じている人々が日々、「自分は聖霊を冒涜してはいないだろうか?」と不安と恐怖におびえながら暮らすためのものではないということ。
むしろ、「赦されない罪」に関するイエスの言葉というのは、イエスを信じることなく、かなりの悪意をもって敵対していた人々に対する警告・忠告の言葉です。13
ですので、もし今、この記事を読んでいらっしゃる方の中で、
と不安に思っている方がいらっしゃれば、その方はまだ聖霊を冒涜する罪を犯してはいないと言えます。
悪意をもって神・イエス・聖霊に敵対しようとする人は、聖霊を冒涜したかどうかを不安に思うことすらないはずだからです。14
いずれにしても、
まとめ
今回は「罪(罰)に程度の大小はあるのか?」というテーマで、罪の種類と結果(罰)について考えました。
聖書に記されている罪に対する罰則は一通りではなく、以下のようなものが挙げられます。
- 弁償、罰金(例:出エジプト記21章18-19、22節)
- イスラエル民族の共同体からの追放(例:民数記9章13節)
- 死刑(例:出エジプト記21章14、15、16、17節)
こうした罰則の違いから罪の程度にも違いがあることが見て取れます。
実際、直接的に罪の大小もしくは律法に定められた掟・戒めの重要度の大小に言及している聖書個所も存在しています(例:エゼキエル書8章6、13、15節;マタイの福音書5章19節;23章23節;ヨハネの福音書19章11節)。
なお、大枠として、罪(罰)の程度の大小は以下の二つの事柄と関係していると言えます。
- 周りの人々に与える(悪)影響の度合い
- 神に対する不敬の度合い
しかしながら、罪(罰)の程度に大小があるというのは、あくまでも私たちの社会生活における話であって、
であることもみました(「霊的な死」とは、神との関係(絆)が断絶してしまうことです)。
これはつまり、
ということです。しかし、
と聖書は語ります。人の罪が神に赦されるための手段・方法とは、
神のひとり子であるイエス・キリストが、
私たちの受けるべき罪の罰(死)を身代わりとして引き受け十字架上で死んでくださったこと、そして死んだ後によみがえった(復活した)ことを心から認め、
イエスを信じ信頼して神の望まれるように人生をやり直そうと決心する(悔い改める)こと
です。しかしながら、イエスを信じたり悔い改めをするどころか、
とも聖書は語っています。
参考文献および注釈
- BLOCHER, H. A. G. “SIN.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
- Bock, Darrell L. Luke. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
- Edwards, James R. The Gospel According to Mark. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002.
- Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
- France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
- France, Richard Thomas. The Gospel of Mark: A Commentary on the Greek Text. New International Greek Testament Commentary. Grand Rapids; Carlisle: Eerdmans; Paternoster, 2002.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.
- Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
- Jenson, P. “SIN.” Edited by Bill T. Arnold and H G M. Williamson. Dictionary of the Old Testament: Historical Books. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2005.
- Kruse, Colin G. Paul’s Letter to the Romans. Pillar New Testament commentary. Grand Rapids: Eerdmans, 2012.
- Martens, E. A. “SIN, GUILT.” Edited by T. Desmond Alexander and David W. Baker. Dictionary of the Old Testament: Pentateuch. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003.
- Moo, Douglas J. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
- MURRAY, J., and B. A. MILNE. “SIN.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, and J. I. Packer. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
- 詳細は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 490–491.
- 詳細な説明は、例えば、下記を参照。J. MURRAY and B. A. MILNE, “SIN,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 1106; E. A. Martens, “SIN, GUILT,” ed. T. Desmond Alexander and David W. Baker, Dictionary of the Old Testament: Pentateuch (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003), 764; P. Jenson, “SIN,” ed. Bill T. Arnold and H G M. Williamson, Dictionary of the Old Testament: Historical Books (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2005), 899–900.
- 詳細は下記を参照。Martens, “SIN, GUILT,” 774.
- John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 102.
- 詳細な説明は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 502–503.
- 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
- 詳細は下記を参照。Douglas J. Moo, The Epistle to the Romans, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996), 320.
- 詳細な説明は下記を参照。Colin G. Kruse, Paul’s Letter to the Romans, Pillar New Testament commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2012), 242–244.
- 「罪の赦し」および肉体的かつ霊的な「死」からの救いについて、興味のある方は下記の記事を参照ください。「イエス・キリストはなぜ死んだのか?③―キリスト教的理由・意味―」「イエス・キリストはなぜ復活した(よみがえった)のか?―イエス復活の意味―」
- 詳細は下記を参照。Richard Thomas France, The Gospel of Mark: A Commentary on the Greek Text, New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids; Carlisle: Eerdmans; Paternoster, 2002), 176.
- 詳細は下記を参照。H. A. G. BLOCHER, “SIN,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 785.
- 詳細な解説については、下記参考文献の「Chapter 36 - Luke 12:1-12」の中の「Theology in Application: 2. Blasphemy against the Spirit」を参照。David E. Garland, Luke, ed. Clinton E. Arnold, The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011); なお、パウロは聖霊を冒涜したのではなく、人の子(イエス)を冒涜したと解釈する聖書学者もいます。例えば、下記参考文献の「Luke 12:1-12」の中の「Original Meaning」を参照。Darrell L. Bock, Luke, The NIV Application Commentary (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996).
- 詳細は下記を参照。R. T France, The Gospel of Matthew, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007), 482–483.
- 詳細な説明は下記を参照。James R. Edwards, The Gospel According to Mark, The Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002), 124.