これまで二回にわたって「聖書は信頼できる書物か?」をテーマに下記の記事を書きました。
「聖書は信頼できる書物か?①―聖書の概要:構成と内容(5W1H)―」では、聖書に関する基礎知識として、聖書に書かれている大まかな内容をみました。
そして聖書は、書かれた時代や地域、作者や様式も異なった66冊の書物が集められた文書集なのにもかかわらず、その中に一つの統一的なテーマ(神が人を救う物語)を見出すことができる不思議な書物であることが分かりました。
「聖書は信頼できる書物か?②―聖書の信憑性:原本保存の精度(写本の信頼性)―」では、現代に伝わる聖書の内容は約2000年以上前に書かれたオリジナル(原本)の内容に非常に近いであろうことをみました。その精度は他の古代の文献に比べて圧倒的に高く、信頼に足るものと言えます。
三回目にして最後となる今回は「聖書は信頼できる書物か?③―聖書の信憑性:歴史的・考古学的整合性―」と題して、聖書に書かれている内容の歴史的・考古学的信憑性を考えていきます。
が、聖書の歴史的・考古学的信憑性を考えるにあたって、そもそものところ、
を確認する必要があると思います。
ということで、まずは歴史のもつ性質を考えながら話を進めていきます。
今回の話の流れ(目次)は以下の通り。
歴史の性質
歴史の主観性と客観性
「歴史」とは広辞苑(第五版)によると
①人類社会の過去における変遷・興亡のありさま。また、その記録。②物事の現在に至る来歴。
出典:新村出記念財団『広辞苑 第五版』(岩波書店、2002年)
歴史の信憑性を問題とするときに用いられるのは上記①の意味。対象となる書物(ここでは聖書)に記されている過去の「ありさま・記録」が正しいかどうか、本当に起こった歴史上の事実、つまりは「史実」と言えるかどうかが議論の対象だからです。
ところで、この「歴史上の事実(史実)」という言葉は意外に曲者です。なぜなら、「歴史上の事実」という言葉の裏には、客観的に誰もが認める(普遍的な)過去の出来事が存在することを仮定しているからです。
しかし、ある出来事が過去に起こったかどうかを「客観的」に知り得ることは、実はそんなに簡単なことではありません。
というのは、過去の出来事を知るためには、その出来事の情報が何らかの形で後世まで残されている(記録されている)必要がありますが、この「出来事を残す(記録する)」という行為そのものに何らかの主観が入ってくるからです。
これはつまり、過去の出来事を知るための手がかりとなる資料には完全に客観的なものが存在していないことを意味します。さらに、残された(少なからず主観の入った)資料を読み解く側もまた、完全に主観を取り除くことは難しいという現状があります。
このため、
と思われるかもしれません。が、新聞や雑誌に載っている記録や記事ですら、完全に客観的な情報というものは存在しません。なぜなら、記事を書く際に記者の人は少なからず情報の「取捨選択」をしているから。
どの情報を載せて、どの情報を載せないかという判断をする際には必ず、その人の主観(もしくは会社が決めたガイドラインという名の主観)が入ってきます。かといって、もし取捨選択をせずに全ての情報を載せようとすると、非常に膨大な量になりますので紙面には収まりません。
しかも、それらの膨大な量の情報ですら、あくまでも一人(もしくは数人)の記者が集めた情報ですから、全てのことを網羅した完全な情報とはいえず、少なからずの「偏り」があります。そして、情報に「偏り」があるということは、厳密な意味では客観的(普遍的)ではありません。
ということで、厳密な意味で客観的な情報というものは、実際には存在しないと言ってもよいと思います。
また、情報を読み取る側にも必ず主観が入ってきます。何かを「理解」したり、「解釈」したり、「納得」したりする行為には必ず、その人なりの主観が絡んでくるからです。
仮に、客観的に情報を得ることがあるとすれば、それはその情報を「完全にコピー」することに他なりません。内容の順序を変えることも、付け足すことも、省くこともできません。情報に抑揚をつけたり(太字にしたり)、調子を変えたり(赤字にしたり)することもできません。
情報を取捨選択したり編集・修正するという判断を行うとき、そこに客観性は存在しないからです。
小難しく書きましたが、要するに、
そして、厳密な意味において、
このように考えてみると、世の中に「客観的」な「歴史」というものは存在しないと言えるのかもしれません。
余談ですが、一応、断っておくと、
それは、例えば、科学で検証することができる法則(万有引力の法則など)です。それらの法則は、いつどこで誰が確かめても必ず同じ結果となります。というか、同じ結果にならなければ、そもそも「法則」という名が付いていません。
このような科学の法則と歴史というものは、本来、根本的な性質が異なります。最も決定的な違いの一つとして、歴史はいつどこで誰もが気軽に確かめられない過去の出来事が基となっていることが挙げられます。
こうした本質的な違いが存在していることを忘れ(否定し)、「全ての事柄は理性によって、科学的・客観的に説明できるはずだ!」という錯覚・幻想に陥ってしまったのが「モダニズム(近代主義; modernism)」。
その影響が「歴史」や「宗教」といった本来、客観性とのつながりが薄いものにまで及んできてしまったのが20世紀初めごろからの傾向だと思います(最近はこの「モダニズム」の錯覚・幻想に気づいた人々が「ポストモダニズム(postmodernism)」に流れているところでしょうか)。1
実際、キリスト教の世界においてもモダニズムに則して聖書に記されている歴史を理解しようとする試みがなされてきました。そして、高等批評(Higher Criticism, Historical Criticism)という立場から、聖書を読む時の以下の三つの「原則(principle)」が生み出されました。2
- 相関の原則(Principle of Correlation):あらゆる出来事や歴史上の現象は、特定の歴史的文脈においてのみ理解される(超自然的な説明・理解は必要ない)
- 類似の原則(Principle of Analogy):全ての歴史上の出来事は根本的に同種・同質(homogeneity)である(現在の体験や状況から過去の出来事は理解できる)
- 批評の原則(Principle of Criticism):絶対的なものは存在せず、全ては可能性に過ぎない(聖書の本文や歴史の理解は絶対的でなく一時的または有り得そうなものに過ぎないため、批評の役割が終わることはない)
この中で「相関の原則」は明らかに、超自然的な存在(聖書では、天地万物の創造主なる神)が歴史に介入することを最初から認めていません。
言い換えれば、神が「歴史」に介入しているようにみえるところ(神が人に語りかけたり、奇跡を行ったりする箇所)は作者の作り上げたフィクションであり歴史上の事実ではないと初めから結論付けていることが分かります。
また、このような原則の背後には、歴史に対する以下のような前提があるといえるでしょう。3
- 歴史は歴史家・歴史学者の思考プロセス(主観)に関係なく(客観的に)独立して存在する
- 歴史家・歴史学者は客観的に存在している(ようにみえる)歴史を知り、かつ書き記すことができる
- 歴史家・歴史学者は歴史を扱う際、自身の(神学的、哲学的、政治的、社会的)興味を排除することができる
- ある過去における歴史上の事実を発見し、その過去を構造化できる
- 歴史の「中身」は、超自然的な存在を持ち出すまでもなく、知的な研鑽によって理解できる
モダニズムに則して聖書(歴史)を理解しようとするときに、このような原則や前提があるということは、ある意味、非常に皮肉なことというか本末転倒なことといえます。
というのも、そもそもモダニズムというのは、理性を用いて客観的に物事を理解しようとする立場でした。しかし、その原則や前提が強すぎるが故に、逆に客観性を失ってしまった(原則や前提を強制的に押し付けることになった)といえるからです。4
なぜ原則や前提を押し付けることになるかというと、それらの原則や前提を客観的に検証する術が存在しないからです。これが歴史(宗教)と科学の決定的な違いの一つです。
科学における原則や前提は実験によって、いつどこで誰もが確かめることができますので、その原則や前提の客観性は保たれます。しかし、歴史や聖書の読み方(解釈)に関しては、いつどこで誰もがそれらの原則や前提が正しいと確かめられる(認める)訳ではありませんので、その客観性は保証されません。
従って、ある特定のグループ(思想家)の主観的考えに基づいて提唱された原則や前提が影響力を増してくると、客観的な裏付け(検証)なしに「押し付けられる」ことになるのです。
と、少し脱線してきましたので話を歴史の性質に戻します。
歴史のメッセージ性
世界史が好きな人はご存知かもしれませんが、西洋には「歴史の父」と呼ばれる人物が存在します。その名をヘロドトス。彼は紀元前5世紀の古代ギリシャの歴史家で、『歴史(Historiai)』と呼ばれる書物を書き残しています。5
『歴史』を書き記した際、ヘロドトスが行ったことは大きく以下の二つ。6
- その土地の地理や社会的慣習、伝統、伝説、神話といった情報を自らの手で直接収集した
- 口述や文書で入手した様々な言い伝えを一つの書物にまとめあげた
そして、ヘロドトスが『歴史』を書いた理由は、その冒頭に明記されている通り、過去に起こった出来事を人々が忘れないようにするためだけでなく、ペルシャ戦争が起こった原因・理由を説明するためでもありました。7
この例からも分かるように、歴史作品(history writing)には以下のような性質がみられます。8
- 歴史作品は「過去の出来事」に加える (一連の出来事を独立したものではなく因果関係の中で解釈する) 部分と減らす (関連がないと思われる出来事を除外する) 部分の両方をもちあわせる9
- 歴史作品は過去の出来事の記録と解釈がほどけないほど複雑に編み合わされた修辞的産物である10
- 歴史作品は過去の出来事を単純に複製したものというより、過去の出来事を物語形式で表し(直し)たものに近い(ある共同体において文字ではなく口述によって伝えられてきた歴史にその傾向がより強い)
- 歴史作品は過去がもたらした現在を説明する
つまるところ、歴史作品というものは、過去の出来事を単純に羅列したものというよりも、
と言えると思います。が、このことは当たり前といえば当たり前のことかもしれません。
当時は今ほど文字を読み書きできる人も多くありません。文字を書き記すもの(パピルス、羊皮紙、木簡、竹簡など)も貴重です。
そんな状況の中でわざわざ何かを書き残そうとするには、それなりの理由(伝えようとするメッセージ)があるのは当然のこと。理由もなく、とりあえず過去に起こった出来事を忠実に(客観的に)書き留めておこうするのは非常に考えにくい話です。
過去の出来事が報告書(レポート)のようにひたすら羅列されているのが「歴史」だというイメージは、恐らく、学校の「歴史」の授業で「テストに出るから、覚えなさい!」と言われるのに慣らされてしまったから、考えること(主観)なしにただひたすら(客観的に)覚えることに慣れてしまったから、なのかもしれません…。
歴史との接し方
歴史作品は、作者が何かを伝えようとして書き残したものであるならば、伝えようとしているメッセージを際立たせるために、作者が過去の出来事に多少の脚色を加えるのは、ある意味、当たり前のことでしょう。
例えば、ある人が、「あの政治家がいかに素晴らしい人だったかを人々に示し、たくさんの人があの人の生き方をお手本としてほしい」というメッセージを伝えようと思ったとします。
そのとき、わざわざその人の失敗談ばかりを並べ立てることはしないでしょう。むしろ、成し遂げた功績や性格の素晴しさが分かる話を寄せ集め(取捨選択)して、人々の心を打つようなストーリーに仕立てると思います。
そこには、少なからずの脚色(表現の誇張や順序の入れ替えなど)が入ってきます。とはいっても、その話が全くの作り話な訳ではありません。まず間違いなく、実際に起きた出来事が土台となっています。
しかし、どこまでが実際に起きた出来事で、どこから脚色が入っているのかを見極めるのは非常に難しい問題。まして、何千年前に書かれた古代の歴史作品(聖書を含む)が相手となると、ほぼ不可能なことだと思われます。
従って、歴史作品を読む時に最も大事かつ意義深いことは、その話がどこまで歴史的事実を正確に伝えているかを検証することよりもむしろ、
と言えるでしょう。これもまた当たり前といえば当たり前のことと言えるかもしれません。
実際、現代の私たちの身の回りにある様々な「作品」 (書物などの文学作品や絵画などの芸術作品など) を考えると、それらの作品を鑑賞する時、その作品が自分の一方的なアイデア(『この作品はこうあるべきだ!』という考え)に則しているかどうかを検証する人は少ないでしょう。
それよりもまずは、その作品を作った作者が何を伝えようとしているかを考え、その中で自分に語りかけてくる・訴えかけてくるメッセージを感じ取ろうとするのではないでしょうか。
歴史作品についても同じで、まずは作者の意図・メッセージを捉え、その上で自分自身に語りかけてくるものを感じ取ろうとする態度(読み方)が重要です。そうする中で、ある意味、副産物として、当時の大まかな歴史および時代背景もくみ取ることができるのです。11
言い換えると、
ということ。
そして多くの場合、歴史作品(聖書)を読む時に重要となる質問・疑問は「この出来事は本当に起こったのだろうか?」ではなく、
だと言えます。8
とはいえもちろん、ある歴史作品の一番伝えたいことが過去の歴史的事実を正確に後世に伝えること、もしくは一番伝えたいことが過去に実際に起こったある出来事を前提としていることがあります。11
そういう場合は言うまでもなく、その歴史的信憑性がその作品の価値や信頼性を決める最も重要な要素の一つとなります。そして、記載されている出来事が実際に起こったかどうかを検証してしかるべきです(その作業は非常に困難なものではありますが)。
しかしながら、2000年以上前に歴史作品(聖書も含む)を書き残した作者の多くにとっては、過去の記録を正確に残すことよりも他に大事なこと(何らかのメッセージを伝えること)があったようです。12
まとめ
今回は「聖書は信頼できる書物か?」をテーマに聖書の歴史的・考古学的信憑性を考えてきました。その中で分かったことをまとめると以下の通り。
- 厳密な意味で、世の中に客観的な歴史(過去の出来事のありさま・記録)というものは存在しない
- 歴史または歴史作品(聖書を含む)とは、過去の出来事を単純に羅列したものというよりも、その作者が同じ時代を生きる人もしくは後世の人たちに何か(問題の因果関係および打開策、知識、知恵など)を伝えようとして書き残したもの
- 多くの場合、歴史的信憑性は歴史作品(聖書を含む)の価値や信頼性を決める最も重要な要素であるとは限らない
- 歴史作品(聖書)を読む時に重要となる質問・疑問は、「この出来事は本当に起こったのだろうか?」ではなく、「この出来事・表現とあの出来事・表現はどのような関係があるのか?このように話を書き進めることで、筆者は何を言わんとしているのか?」
これらのことから分かること、それは、少し期待外れな結果ではありますが、
ということでしょう。
しかし、このことを認識しておくことは聖書を読む時にとても大切なことです。なぜなら、もし「聖書に歴史的・考古学的信憑性はあるのか」にこだわるあまり、聖書のメッセージが正しく理解できなくなってしまうのであれば、聖書のメッセージが信頼できるかどうかの正しい判断もできなくなってしまうから。
それはつまりは、そもそものテーマであった「聖書は信頼できる書物か?」にも答えることができなくなってしまうという不本意な結末となります。
それでは、
というと、決してそういう訳ではありません。理由は大きく二つあると思います。
一つ目は、聖書の「歴史的・考古学的信憑性」を考えることが必要不可欠な場合があるからです。どういう場合かというと、聖書の作者が伝えようとしているメッセージが過去に起こった出来事を前提としている場合です。
聖書の歴史的・考古学的信憑性を調べることに意味があると言えるもう一つの理由は、歴史的・考古学的信憑性を調べることを通して、聖書の作者が過去の出来事のどこをどのように脚色(強調や削除)したかがより明確になるからです。
そして、作者がどこをどのように脚色したかを知ることは、作者が伝えようとしているメッセージが何か(作者にとって何が重要で、何が重要でないか)を知る手掛かりとなり得ます。
このことは、「聖書の読み方」(聖書を読む時の注意点)とも関連させつつ、別のブログ記事で取り上げたいと思います。
参考文献および注釈
- Green, J. B. “HISTORICISMS AND HISTORIOGRAPHY.” Edited by Joel B. Green, Jeannine K. Brown, and Nicholas Perrin. Dictionary of Jesus and the Gospels. Downers Grove, Ill.: IVP Academic, December 2013.
- Herodotus. “The History of Herodotus.” Translated by G. C. Macaulay, 1890. Wikisource. https://en.wikisource.org/wiki/The_History_of_Herodotus_(Macaulay)/Book_I.
- van der Horst, P. W. “JEWISH LITERATURE: HISTORIANS AND POETS.” Edited by Craig A. Evans and Stanley E. Porter. Dictionary of New Testament Background. Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000.
- Klingbeil, G. A. “HISTORICAL CRITICISM.” Edited by T. Desmond Alexander and David W. Baker. Dictionary of the Old Testament: Pentateuch. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003.
- ———. “WISDOM AND HISTORY.” Edited by Tremper Longman and Peter Enns. Dictionary of the Old Testament: Wisdom, Poetry & Writings. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2008.
- McKenzie, S. L. “HISTORIOGRAPHY, OLD TESTAMENT.” Edited by Bill T. Arnold and H G M. Williamson. Dictionary of the Old Testament: Historical Books. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2005.
- Netland, Harold. “Contours of the Present: The Culture of Modernity.” In Encountering Religious Pluralism: The Challenge to Christian Faith & Mission, 55–91. Downers Grove, Ill.: IVP Academic, 2001.
- Sterling, G. E. “HISTORIANS, GRECO-ROMAN.” Edited by Craig A. Evans and Stanley E. Porter. Dictionary of New Testament Background. Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000.
- 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “ヘロドトスとは.” コトバンク. Accessed March 30, 2018. https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%B9-131002.
- モダニズムとポストモダニズムの関係について、興味のある方は、例えば下記を参照。Harold Netland, “Contours of the Present: The Culture of Modernity,” in Encountering Religious Pluralism: The Challenge to Christian Faith & Mission (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, 2001), 55–91.
- G. A. Klingbeil, “HISTORICAL CRITICISM,” ed. T. Desmond Alexander and David W. Baker, Dictionary of the Old Testament: Pentateuch (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003), 403.
- J. B. Green, “HISTORICISMS AND HISTORIOGRAPHY,” ed. Joel B. Green, Jeannine K. Brown, and Nicholas Perrin, Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, December 2013), 384.
- Klingbeil, “HISTORICAL CRITICISM,” 403.
- ヘロドトスに関する詳細は下記を参照。第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, “ヘロドトスとは,” コトバンク, accessed March 30, 2018, https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%B9-131002.
- S. L. McKenzie, “HISTORIOGRAPHY, OLD TESTAMENT,” ed. Bill T. Arnold and H G M. Williamson, Dictionary of the Old Testament: Historical Books (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2005), 419.
- Herodotus, “The History of Herodotus,” trans. G. C. Macaulay, 1890, 1.1, Wikisource, https://en.wikisource.org/wiki/The_History_of_Herodotus_(Macaulay)/Book_I.
- 詳細は下記を参照。Green, “HISTORICISMS AND HISTORIOGRAPHY,” 385.
- 出来事の因果関係をどこまで遡って関連付けるかは地域差があったようです。例えばエジプトでは、過去は、因果関係に関係なく、それ自体が単独で知識と知恵の貯蔵庫とみなされていました。そのため、伝記的な碑文や年代記は時代をまたがず、個々に独立したものが多いようです。G. A. Klingbeil, “WISDOM AND HISTORY,” ed. Tremper Longman and Peter Enns, Dictionary of the Old Testament: Wisdom, Poetry & Writings (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2008).
- メソポタミアでは架空の自伝が重要な文学様式の一つとされていたようです。しかしながら、(部分的に)虚構や空想が入っているからといって歴史的価値が全くないとは言い切れません。ibid., 864.
- 歴史作品に対するこのような態度(接し方)は聖書を読む時も当てはまります。「聖書の読み方」(聖書を読む時の注意点)については、下記の記事を参照ください。「聖書に読み方はある?読む時の注意点は?①ー古典としての聖書ー」、「聖書に読み方はある?読む時の注意点は?②ー文学としての聖書ー」、「聖書に読み方はある?読む時の注意点は?③ー聖典としての聖書ー」
- 聖書が書かれた時代に近い古代ギリシャ・ローマの歴史家とその作品について、興味のある方は下記を参照。G. E. Sterling, “HISTORIANS, GRECO-ROMAN,” ed. Craig A. Evans and Stanley E. Porter, Dictionary of New Testament Background (Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000), 501–504; 同じく、聖書が書かれた時代に近い(紀元前3世紀から紀元1世紀頃)ユダヤ人歴史家とその作品について、興味のある方は下記を参照。P. W. van der Horst, “JEWISH LITERATURE: HISTORIANS AND POETS,” ed. Craig A. Evans and Stanley E. Porter, Dictionary of New Testament Background (Leicester, England; Downers Grove, Ill: InterVarsity Pr, 2000), 580–582.