「それでも、私は」:2021年11月14日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)でのハバクク書からの説教は、今日が最終回です。

今日の聖書個所は特に

信仰によって生きる正しい人がもつ「信仰」とはどのようなものか?

を教えてくれる個所です(比較:ハバクク書2章4節)。今日は

聖書の語る「信仰」とは何か?

また

そのような信仰をもつにはどうすればよいか?

を共に考えていきます。

神との対話

ハバククの生きた時代、世の中には暴虐が満ち、不法があふれ、正しい裁きがなされなくなっていました(ハバクク書1章2-4節)。

そのような世の中に正しい裁きがなされ、神様に忠実な人々が救い出されるようにとハバククは神様に祈り求めていました。

長い間、祈り続けたハバククがようやく得た答えは、神様が悪名高いカルデア人(新バビロニア王国)を用いて、イスラエル人(南ユダ王国)を滅ぼすというものでした(1章5-11節)。

戸惑うハバククは神様からの更なる答えを待ちます(1章12節—2章1節)。

すると神様はカルデア人(正しくない人)に対する終わり(裁き)の時は必ず訪れること、また、正しい人はその信仰によって生きることを告げられます(2章2-20節)。

この神様からの語り掛けに対して、ハバククは祈りのかたちの賛美を神様に献げます(ハバクク書3章)。

その祈り・賛美の中で特に3-15節には、御自分の民(信仰によって生きる正しい人)を救うために国々(正しくない人々)を裁かんとする威厳に満ちた神様の姿が描かれています(3章1-15節)。

この威厳に満ちた神様の姿に対してハバククは身も心も震えます(3章16節;比較:ヨブ記40章3-5節; 42章1-6節;イザヤ書6章1-5節;ダニエル書7章28節; 8章27節; 10章7-9節)。

それからハバククは

イスラエル民族を滅ぼすカルデア人に対する裁き(終わり)の日を静かに待つ

と宣言します(ハバクク書3章16節;比較:ハバクク書2章3節)。

神様に対するハバククの絶対的な信頼・信仰

が表れています。

神への信頼

しかし、カルデア人に対する終わりの時が来る前にやってくるのは、イスラエル民族に対する裁きです。

残忍で残虐なカルデア人によって南ユダ王国の領土は荒らされ、略奪され、破壊されることになります(参考:ハバクク書1章6節; 2章8, 17節)。

まともな食料は全て無くなり、羊や牛といった財産も全て失ってしまいます(ハバクク3書17節)。

ある意味、

神様から与えられた物質的な祝福が全て取り上げられてしまう

ことになります(比較:申命記28章1-6節;ヨエル書1章6-20節)。

「それでも、私は」神様がいつの日かカルデア人たちを裁き、自分たちを救い出してくださることを信じて喜ぶ

とハバククは宣言します(ハバクク3章18-19節)。ここに「信仰によって生きる正しい人」の生き方、また聖書の語る「信仰」が示されています。

信頼の祈り

それにしても、

なぜハバククはこのような確固たる「信仰」をもつことができたのでしょうか?

ハバククがどんな状況にあっても神様に対する信頼・信仰を失わなかった理由の一つとして、彼が神様に祈り続けたことがあると思います。

確かなことは分かりませんが、恐らくハバククはかなり長い間、神様に祈り続けていたと思われます(参考:ハバクク書1章2節)。このとき重要なのが

静かに待つ

ことだと思います(参照:ハバクク書2章1, 3節; 3章16節)。私たちもまたハバククと同じく

静かに、心を落ち着かせて、神様からの小さな語り掛けに耳を澄ませる

必要があります。とはいえ、

私たちは弱い存在

です。どんな状況にあっても神様に信頼し、その語り掛けに耳を澄ませながら祈り続けるべきだと頭では分かっていても、なかなか実行するのは難しいものです。

他のクリスチャンたちとの交わり、そして祈り

が必要です (参考:使徒言行録1章14; 2章46-47節;ヤコブの手紙5章16節)。ハバククのように

辛く困難な状況にあるときこそ、皆が集まって心をあわせて神様に祈り、賛美をささげる

ことが大事だと思います(参照:ハバクク書3章1, 19節;比較:ローマの信徒への手紙12章9-13節)。

さらに、

祈りの中で、これまでに学んだもしくは感じた神様・イエス様の性質や働きを思い巡らす

ことも重要です(参照:ハバクク1書12-13節; 3章2節)。私たちもまたハバククのように

祈りの中で、神様・イエス様がどういうお方であるかを思い起こす

必要があります。

神様・イエス様の御業を思い出す

必要があります。

私たちがどんな状況にあっても神様に絶対的な信頼を置くのは「ただ言われたから」という受け身的かつ盲目的な信仰によるものではありません。

これまでの神様・イエス様の御業、およびその御業を通して表される神様の御性質という裏付け(客観的な聖書の真理と個人的な体験)に基づいた「信仰」による

のです。

結論

自らの置かれている状況にかかわらず、神様に絶対的な信頼を置いて、神様の望まれる生き方を忠実に歩もうとする。

それが「信仰によって生きる正しい人」の生き方、神様・イエス様を信じる者に求められている生き方です。

どんなときであっても神様に対する信頼を失うことなく神様にあって喜ぶ。
その力をも神様が与えてくださると信じる。

それが聖書の語る「信仰」だと言えます。

そのような神様に対する信頼・信仰を保ち続けるためには

神様に祈り続ける

ことが非常に大事です。特に

祈りの中で、自らの思い・叫びを神様に率直にぶつけてみてください。

ただし、一方的に祈るのではなく、

しばし静寂の中で心を静め、一日の出来事を振り返り、神様の御業や祝福や導きを確認する時間を取ってみてください。

そのように意図的に神様からの語り掛けに耳を傾けることで、神様に関する「気づき」が増えてくるはずです。

それによって、神様の働きを感じやすくなり、神様に対する理解が深まり、神様への信頼・信仰も増してきます。

また、

祈りの中で、これまでの神様・イエス様の御業およびその御業を通して表される神様の御性質を思い起こす

ことも重要です。さらに、

独りだけでなく、皆で集まって心を合わせて神様に祈り続ける

ことも大事です。

人生において耐え難い苦しみや悲しみ、痛みを経験し、

生きる希望や意味を失いそうになるとき、

神様の存在そのものや神様の愛に疑問を感じてしまうとき、

その思いを飾ることなく神様に直接ぶつけてみてください。

と同時に、

神様がどういうお方で、何をしてくださったのかも思い出してください。

イエス様の十字架と復活に表されている神様の愛と恵みと憐れみ、正しさと偉大さ、絶対的な主権と全知全能性を思い起こしてください。

神様の存在を初めて感じたときのこと

神様の愛に初めて触れたときのこと

神様の恵み、憐れみに初めて気づいたときのこと

を思い出してください。

まだ神様のことが良く分からない方は、

神様のことを知ろうと思ったきっかけ

神様のことに興味をもつようになったきっかけ

礼拝に出て説教を聞くことになったきっかけ

がどのようなものであったかを思い出してください。それがどのようなものであれ、

あなたが今、ここにいるのは間違いなく神様の導き・働きによるもの

です。

残念ながら、

神様が祈りに答えてくださるタイミングと方法は、私たちが期待・予想する通りとは限りません。

神様が直ぐに答えてくださるときもあれば、なかなか答えてくださらないかもしれません。

祈り・願い通りのことが起きることもあれば、全く反対の結果となるかもしれません。

ハバククのように直接的な神様の声を聞くことは稀だと思いますが、神様は聖書や人、日常の出来事(状況)などを用いて語りかけてくださいます。そんな

神様からの小さな語り掛けに耳を澄ませてみてください。

また、

独りで思い悩むのではなく気の置ける友人(もしくは牧師や宣教師)にその悩みを打ち明け、共に祈り合ってみてください。
たとえあなたが今、どれほど困難な状況にあったとしても、あなたは独りではありません。

あなたの最大の理解者であるイエス様がいつもあなたと共にいて、あなたを励まし、力づけてくださっているからです(マタイによる福音書28章18-20節)。

たとえ自分の持つ全ての財産、地位・名誉、人間関係を失ってしまったとしても、神様とあなたとの関係だけは決して失われることがありません。

神様の愛からあなたを引き離すものは何もないからです(ローマの信徒への手紙8章35-39節)。

たとえ自分はもう生きる価値がない、誰からも必要とされていない、死んだ方がマシだと思うような出来事があったとしても、神様はあなたを必要としておられます。

神様の目にあなたは高価で尊く、何物にも代えられない存在だからです(イザヤ書43章4節)。

神様はあなたのために、あなたに振り向いてもらうために、あなたと共にいるために、あなたの身代わりとして十字架にかかり、死んでよみがえられた

のです。その

神様のはかり知れない愛をより深く味わい知ることができますように。

そして、

たとえ耐え難いほどの苦しみや悲しみ、痛みを経験することがあったとしても、イエス様と共に主にあって喜び、救いの神に喜び踊ることができますように。

参考文献および注釈

  • Barker, Kenneth L. Micah, Nahum, Habakkuh, Zephaniah: An Exegetical and Theological Exposition of Holy Scripture. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 1998.
  • Bruckner, James. Jonah, Nahum, Habakkuk, Zephaniah. Fifth Impression edition. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2004.
  • Robertson, O. Palmer. The Books of Nahum, Habakkuk, and Zephaniah. 2nd edition. The New International Commentary on the Old Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1990.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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