「神への畏れ」:2022年11月13日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では2022年の1月から出エジプト記を通して説教をしてきましたが、今日で出エジプト記からの説教は終わりとなります。

皆さんそれぞれに感じ方や捉え方は異なると思いますが、これまでの出エジプト記の物語を通して、神様の愛と恵みと憐れみ、そして絶対的な主権を感じることができたのではないかと思います。

実際、この神様の愛と恵みと憐れみ、そして絶対的な主権は聖書内の「十戒」や「律法」の中にも見ることができます。

というのも、聖書の「戒め」「律法」「掟」というものは私たち人間を縛るためのものではなく、私たちが

人間らしく生き、本当の意味の幸せを得るためのもの

だと言えるからです(参照:申命記5章33節)。

私たち人間はどうすれば本当の幸せを得られるか分からずにさまよい歩いています。

その

幸せに至る道を知らせるために神様は「戒め」をお与えになった。

しかも、私たちが求めるより先に一方的な恵みによって。

ここに神様の人間に対する深い愛と憐れみを感じることができます。

今日の聖書個所を通しても神様の愛と恵みと憐れみ、そして主権を感じることが出来ますので、その内容を共に詳しく見ていきましょう。

神への畏れを抱く人々

今日の聖書個所は、

「十戒」が与えられたときの状況および民衆の反応

がどのようなものだったかを教えてくれます。

出エジプト記19章をみると、この十戒が与えられたとき、

神様はシナイ山に降ってきた

と記されています。そのとき、

山の上には雷鳴と稲妻と厚い雲が臨み、角笛が鳴り響き(出エジプト記19章16節)、山全体が煙に包まれていました(19章18節)。

これは今日の聖書個所となる出エジプト記20章18の描写と合致します。

聖書の中では神様が人々のところに現れるとき、しばしばこのような自然現象を伴います(例:出エジプト記3章2節; 13章21節;レビ記9章24節)。

そこには

天地万物を完全に支配しておられる神様の主権

をはっきりと見てとれます。

さて、このような自然現象を伴って神様がシナイ山に降ってこられたとき、

モーセは山の頂に登って神様と直接対話

をします。一方、

他の人々は山のふもとにいて遠くから神様の雷鳴のような声を間接的に聞いていた

ようです(出エジプト記19章9, 17, 19, 24節)。

山は煙で覆われ、何も見えない濃い雲の中に雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が響き渡っている。

そんな中で雷鳴のような神様の声を聞いたとき、人々は神様が自分たちに語らないようにしてほしいと震えながらモーセに訴えかけます(20章19節)。

神への畏れの効果

するとモーセは、神様がシナイ山を煙で覆い、雷鳴や稲妻、また角笛の音と共に雷鳴のような声で人々に語られたのは、

神様の臨在を間近に経験する「神体験」を通して神様に対する恐怖と畏敬の念を引き起こし、人々が神様の戒めや掟、律法を守るようにするため

だったと語ります(出エジプト記20章20節)。ここに、

どうにかして人々に戒めや掟、律法を守ってほしい
本当の意味で人間が人間らしく幸せに生きてほしい

と願う神様の愛と恵みと憐れみを感じることが出来ます。

なお、この後でモーセが神様の更なる言葉と律法を人々に告げ知らせたとき、彼らは一様に神様の言葉を全て行うと答えます(出エジプト記24章3節)。

それから彼らは神様と契約を交わし、契約の書に記された神様の言葉を全て守り行うことを宣言します(24章5-8節)。

これは明らかにその直前の「神体験」がもたらした「畏れ」の効果だと言えます。

神への畏れの限界

ここまでの話をみると「畏れ」の効果は絶大だと言えるのですが、実は

話はこれで終わりません。

実際、人々は神様と契約を結び、神様の言葉に聞き従うと高らかに宣言して間もなく(40日足らず)、

十戒の二つ目の戒め「偶像礼拝をしてはならない」を破ってしまいます(出エジプト記32章1-8節)。

ここに

全ての人に内在する罪の性質がどれほど根深いものであるか

また

人間に対する罪の支配力がどれほど強いものであるか

が表れています。事実、その

罪の支配力は非常に強く、人間の努力や意思の力だけではどうすることもできません。

だからこそ、

人間を罪の支配から解放して新しい命(人生)に生かすため、神の独り子であるイエス様が十字架で死んでよみがえった

と聖書は語ります(参照:ローマの信徒への手紙6章6-8節;参考:ローマの信徒への手紙6章4-5節)。

結論

「神体験」や「奇跡体験」というものは確かに神様・イエス様に対する恐怖や畏敬の念を引き起こし、神様に従おうとする気持ちをもたらします。

しかしながら、多くの場合、

そうした気持ちは長続きしません。

出エジプト記のイスラエル民族だけでなく、イエス様の時代の人々も同じでした。

イエス様は数多くの奇跡的な業を行い、その噂を聞いた人々が大勢、イエス様につき従いました(参考:ヨハネによる福音書6章26節)。

けれども、イエス様が十字架にかかる時には弟子たちも含めて皆、イエス様を見捨ててしまいます(マルコによる福音書14章50節)。

「神体験」や「奇跡体験」だけに根差した「信仰」は人生が上手くいっている順境時には特に問題はありませんが、

不安や心配、苦難や困難が襲ってくる逆境時には長続きしない

ものだと言えます(参考:ヨハネによる福音書2章23-25節;比較:マルコによる福音書4章16-17節)。

その典型的な例がイエス様の弟子のペトロです。

最後の晩餐の席でイエス様は彼に「あなたは今夜、私のことを三度、知らないと言うだろう」と言われます(マルコによる福音書14章30節)。

するとペトロは、たとえイエス様と一緒に死ぬことになってもイエス様を知らないとは言いませんと断言します(14章31節)。

しかし、その直後にイエス様が捕らえられ大祭司のところで裁判を受けているとき、イエス様の預言した通り、ペトロは三度、イエス様を知らないと言ってしまいます(14章43-72節)。

何の問題もなく、自分の身に危険が迫っていないとき、ペトロは自らのイエス様に対する「信仰」を高らかに宣言しました。

しかしながら、

自分もイエス様のように捕らえられ、最悪の場合は裁判にかけて殺されるかもしれないというとき、ペトロの「信仰」はどこかに行ってしまいました。

けれども、

話はこれで終わりません。

この後、

ペトロは初代教会のリーダー的役割を務め、どんな逆境にあってもその信仰が無くなることはありませんでした。
一体、何がペトロをそこまで変えたのでしょうか?

その要因の一つは間違いなく、

イエス様の無条件の愛に打たれた

ことだと思います。

もし私が誰かが自分を裏切ると事前に知ることができたとすれば、自分を裏切ろうとしている人とそれまでと変わらない付き合いを続けるのは非常に難しいと思います。

でもイエス様は、ペトロが自分のことを三度、知らないと言うであろうことを知っていたにも関わらず、

それまでと少しも変わることなくペトロを愛し抜かれました。

ペトロはこのイエス様の無条件の愛に自分が三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったときに気づかされたに違いありません。だから彼はそのとき泣き崩れたのだと思います(マルコによる福音書14章72節)。

現代社会は「みんな違って、みんないい」という言葉もあるように、

絶対的な価値観や真理はなく、全てが相対的である

という考え方が支配的になってきています。

「幸せ」の意味も「みんな違って、みんないい」

幸せに至る道も「みんな違って、みんないい」

という訳です。言うなればそれは、

皆がそれぞれ「神」となって、自分で勝手に決めても大丈夫

ということを意味しています。でもそれによって今度は

「一体どれ・何が本物、真実なのだろうか…」
「自分で決めてよいと言われても分からない!」

と悩む人が増えるのもまた事実です。そんな中で

聖書は絶対的な価値観・真理がある

と教えてくれています。聖書の教える絶対的な価値観・真理というのは、

人は人(自分と他人)を救うことが出来ず、神様の愛と恵みと憐れみにすがる他ない

ということ、また

神様はその愛と恵みと憐れみの故にイエス様の十字架と復活という御業を通して人々の救いを成し遂げられた

ということです。私たちに求められていることは、その

神様・イエス様を信じ、聖霊の助けによって、神様の喜ばれる人生を歩む(神様と周りの人々を愛する)

こと。そこに

本当の「幸せ」

があります。

ただし、聖書・牧師がそう言っているから、神様の喜ばれる人生を歩もうとする訳ではありません。

クリスチャンとしての義務感からでも、周りの雰囲気に流されてでもありません。

私たちが神様の喜ばれる人生を歩もうとするのは、

神様に対する恐怖と畏敬の念、および神様の無条件の愛と救いの御業に対する感謝と喜びの思い

に根差している必要があります。そうでなければ、

遅かれ早かれどこかで無理がきて、疲れ果て、燃え尽きてしまいます。
神様は天地万物を無から造り出し、その全てを統べ治めておられる絶対的な主権者

です。その

神様があなたの存在そのものを無条件で愛してくださっています。
本当の意味で人間らしく幸せに生きてほしいと願っていらっしゃいます。
その真理をより深く味わい知ることが出来ますように。

参考文献および注釈

  • Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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