礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2023年1月22日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「イエスと共に歩む道」
- 聖書個所:マタイによる福音書4章18-22節1
導入
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では先週の日曜日からしばらくの間、「弟子訓練」をテーマに説教をしていくことになっています。
この「弟子訓練」というのは英語のdiscipleshipの訳ですが、弟子の訓練(育成方法)というよりも、「イエス様の弟子(クリスチャン)としての在り方」を指しています。
つまり、
といったことが説教のテーマになります。
今日の聖書個所にはイエス様の最初の弟子となった人たちの話が記されています。
この個所を通して、イエス様の弟子(クリスチャン)とはどのような人たちで、どのように生きることが求められているかを共に考えていきましょう。
神への信頼と応答
今日の個所にはペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネという二組の兄弟が出てきます。
彼らは皆、漁師でした。
イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いているときに彼らを見つけ、突然、自分についてくるようにと声をかけます。
しかも、彼らを「人間をとる漁師」にするというのです(マタイによる福音書4章19節)。
「人間をとる漁師」というのは、人々が神様の裁きを受けるかどうかの分かれ目となる福音を宣べ伝える人と解釈できます(参考:マタイによる福音書10章5-15節; 13章47-50節;比較:エレミヤ書16章16節;アモス書4章2節;ハバクク書1章15節)。
この個所で注目すべきは、ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネが皆、
ことです(マタイによる福音書4章20節;比較:ルカによる福音書5章1-11節;ヨハネによる福音書1章35-42節)。そこには
が強調されています。
彼らにはもちろん、自分たちの仕事や家庭、財産がありました。
けれども、彼らはそれら全てを置いて、イエス様を信頼し、すぐに従っていった訳です。
私たちの人生においても、神様からの招きや導きがあったときには時と場合によっては、
ことが求められます。
それぞれに異なる働き
なお今日の個所は、イエス様の弟子(クリスチャン)が皆、牧師や宣教師となるように勧めている訳ではありません。
からです(参照:エフェソの信徒への手紙4章11-13節)。
仕事・財産と働き
とはいえ、やはり
と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、これもまた
仕事に関していえば、その仕事が法律に触れるようなことであれば、もちろん辞めた方が良いとは思います。
しかし、いわゆる世間一般に広く認められている仕事であれば辞める必要はありません。
むしろ
財産に関しては、確かにイエス様が金持ちの青年(議員)に対して、全財産を売って貧しい人に施してからイエス様に従うようにと勧めている箇所があります(ルカによる福音書18章22節)。
けれども、イエス様の弟子の中には高名な議員(アリマタヤのヨセフ)がいましたが、彼は私財を全て投げ打ってイエス様に従っていた訳ではありません (参考:マルコによる福音書15章42-46節;ヨハネによる福音書19章38節)。
です(参照:マタイによる福音書6章24節)。
家庭・家族と働き
また
というのも、イエス様は結婚関係の大切さ(マタイによる福音書19章3-12節)および両親を敬うべきこと(15章1-9節; 19章19節)を教えているからです。
ただし、
状況は出て来ます。
実際、イエス様はそのような家庭内における信仰上の対立をマタイによる福音書10章34-37節で預言しておられます。
両親や子供、配偶者は皆全て愛すべき対象です。
けれども、
私たちの家族や親友を含む全ての人間関係は創造主なる神様の存在があってこそ成り立っているからです。
ことが求められています。
結論
その招きに対して、
ように神様は願っておられます。
その招きに応じてイエス様の示す道に付いて行こうとするとき、時と場合によっては
ように求められることがあります。
自分が置かれている状況の中で
神様が自分に何を求めているのか、
神様の御心が何なのか、
神を愛し人を愛するためにはどうすべきなのか
を耐えず祈り求める必要があります。
また、
です。
牧師や宣教師の務めを任される人もいれば、預言者や教師のような役割を与えられる人もいます。
世間一般の仕事に就きながらキリストの体である教会内で様々な働きを任される人もいます。
これらの役目・役割には優劣はありません。
あくまでも
ことを神様は願っておられます。
その呼びかけに応答するのを躊躇しているとすれば、その理由・原因は何でしょうか。
イエス様の弟子(クリスチャン)として生きる道は決して苦しみや悲しみと無縁な道ではありません。
でも、
です。
たとえどんなことがあったとしても、
なのです(参照:詩編23編)。
参考文献および注釈
- France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
- Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.