礼拝説教の要旨です(実際の説教音声[英語通訳付]はこちら)。
- 日時:2023年5月7日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神の恵みの福音」
- 聖書個所:コリントの信徒への手紙一15章1-11節1
導入
皆さんは
と尋ねられたら、どのように答えますか。
もちろん、「福音とは何か?」という問いの答えは一通りではありません。
でも恐らくですが、「福音とは何か?」と尋ねられたとき、
ように思います。
イエス様の十字架については語っても復活についてはあまり触れることはないというのは聖書の語る「救い」について考えるときも同じように思います。
実際、
という救いのイメージを持っている方は少なくないと思います。
この救いのイメージの中に「復活」は全く入っていません。
にもかかわらず、
だということはクリスチャンであれば誰もが知っているはずです。
そのことは今日の聖書個所で
ことからも明らかです(参照:コリントの信徒への手紙一15章3-4節)。
では
今日の聖書個所を通して今一度、イエス様の復活の意味・意義、また聖書の語る「福音」そして「救い」とは何かを共に考えていきましょう。
復活の福音
今日の聖書個所を含むコリントの信徒への手紙一15章全体でパウロは「復活」について詳しく記しています。
それは、当時のコリントに住むクリスチャンたちの中に
と言っていた人たちがいたからでした(コリントの信徒への手紙一15章12節)。
そんな彼らにパウロは、死者の復活が確かにあることの根拠となるのがイエス様の復活だと主張します。
そして、イエス様が肉体をもって確かに復活したことを示すためにパウロは、
ことを記します(5-8節)。
復活したイエス様はその取り巻きの使徒たちだけでなく、五百人以上の人にも同時に現れました。
イエス様の生前にはイエス様を信じていなかったヤコブは復活したイエス様と出会ってから教会内の指導者的役割を担うように変えられました(比較:ヨハネによる福音書7章5節;使徒言行録15章13節)。
クリスチャンを迫害していたパウロ自身もまた復活したイエス様と出会ったためにイエス様を信じるようになり、どんな迫害にあっても福音を宣べ伝え続ける者へと変えられました(参考:使徒言行録9章1-19節;コリントの信徒への手紙一15章9節)。
恵みの福音
今日の個所の最後でパウロは、
ものだと記します(コリントの信徒への手紙一15章10節)。
これはパウロにだけ当てはまることではありません。
事実、
ものです。
神様はご自分の独り子イエス様をこの世に遣わし、イエス様の十字架と復活という御業を通して、私たちが行いではなく信仰によって救われる道を開いてくださいました。
しかも
と言えます。別の言い方をすれば、
と言えます。
救いの福音
最後に、聖書の語る救いと復活との関係について少し考えます。
冒頭で少し触れましたが、聖書の語る救いとは「死んだ後に天国で神様や愛する人と永遠に過ごす」ことだけを意味していません。
聖書の語る最終的な救いとは
です。
事実、アダムとエバが神様の言いつけに逆らったとき、罪と死がこの世に入り、大地は呪われてしまいました。
天地万物は本来あるべき姿を失ってしまった訳です。
この本来あるべき姿を失った天地万物がその本来の姿を取り戻すとき、聖書の語る救いが完全に実現します(参考:ローマの信徒への手紙8章18-23節;ヨハネの黙示録21章1-5節)。
言うなれば、聖書の語る救いとは
と言えます。
堕落前のエデンの園には肉体をもったアダムとエバが神様および他の動植物と共に暮らしていました。
ですから、この
ことになります(コリントの信徒への手紙一15章20-22節)。
イエス様が肉体をもって復活されたのは神様が死に打ち勝つ力をもっていることを示すためだけではありません。
イエス様が肉体をもって復活されたのは、
ためでもあったのです(参考:コリントの信徒への手紙一15章20-26節)。
結論
聖書の語る福音(良い知らせ)にはイエス様の十字架だけでなくイエス様の復活も欠かすことができません。
イエス様の復活には
また
が示されています。
されます。こうした、
ものです。
私たちは行いによってではなくイエス様を信じる信仰によって罪赦され、神様の前に義(正しい)とされ、神様の子供とされます。
また、私たちは自分の力や努力でどう頑張ってみたところで、死んだ後に復活することはできません。
被造物を本来あるべき姿に戻すこともできません。
のです。
私たちクリスチャンは神様の恵みによって生かされている存在です。
と言われても、順境時はともかく、逆境時にはなかなか神様の恵みを感じることはできないとおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。
が、しかし、見方を変えてみると、
と言えるかもしれません。
からです(比較:コリントの信徒への手紙二12章9節)。
私たちが自らの弱さを認め、神の霊、聖霊の助けにすがるとき、
私たちには思いもよらなかった道が開けてきます。
私たちの想像もしなかった神様の御業が私たちを通して成されていきます。
私たちの理解をはるかに超えた神様の力が私たちの弱さの中に完全に現れてきます。
これらは全て神様の恵みです。
そして、この
神様の恵みを受け取る(感じる)一つの秘訣は
ことです。
神様はあなたが何かできるから愛してくださる訳ではありません。
たとえあなたが何かをできないとしても、
神様の喜ばれる人生を完璧完全に歩むことができないとしても、
この神様の無条件の愛は神様の恵みに他なりません。
もちろん、あなたが今できていることもあるでしょう。
しかし、その能力・賜物もまた神様の恵みによってあなたに与えられたものです。
あなたが努力した環境さえもまた神様の恵みによってあなたに与えられたものです。
あなたが今何かできるのは神様の恵みです。
また仮に何かできないとしても神様の恵みが変わることはありません。
むしろできない自分を認めるときに神様の恵みはより一層明らかにされていきます。
神様の恵みはあなたに十分です。
神様の力はあなたの弱さの中で完全に現れます。
参考文献および注釈
- Blomberg, Craig L. 1 Corinthians. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1995.
- Fee, Gordon D. The First Epistle to the Corinthians, Revised Edition. Revised edition. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2014.
- Gardner, Paul D. 1 Corinthians. Edited by Clinton E. Arnold. The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Academic, 2018.