「広がる祝福」:2020年6月21日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

創世記37章から見てきたように、ヨセフは若くして非常に辛く苦しい思いを経験します。

にもかかわらず、ヨセフは神様に忠実に生き抜きます。そしてついに、今日の個所にあるように、エジプトでファラオに次ぐ地位に就き、結婚して子宝にも恵まれます。

神様を信じて生きていれば、いつかは必ず成功して幸せな人生を歩むことができる!

と思いたくなるほど、典型的なサクセスストーリーです。しかしながら、ヨセフにまつわる創世記の話はここでは終わらず、50章まで続いていきます。

今日はヨセフのサクセスストーリーの背後にある聖書のメッセージが何かを共に考えたいと思います。

ヨセフに与えられる祝福

創世記41章1-36節でヨセフは、エジプトのファラオが見た不思議な夢を見事に解き明かしました。

するとファラオは、これから起こるであろう豊作と飢饉に備えるため、ヨセフをファラオに次ぐ地位に就かせます(41章37-41節)。その証しとして、ファラオはヨセフに様々な装飾品を与え、就任パレードを催します(42-44節)。

また、ファラオはヨセフにエジプト人の名前を与え、オンの祭司の娘を妻として与えます(45節)。「オン」というのはエジプトの太陽神が祀られていた場所の名前で、エジプト内でも有数の有力都市でした。そこの祭司の娘を妻に迎えるというのは、現代風に言えば一流貴族の仲間入りをしたようなものです。

ヨセフに対する祝福はまだ続きます。

ヨセフはファラオから与えられた妻との間に二人の息子を授かります(50-52節)。

ここで注目したいのは52節の「(子孫を)増やす」という言葉。この言葉は「聖書 新改訳2017」では「実り多い」、英語(ESV, NIV)ではfruitfulとも訳されていて、創世記における大事なキーワードの一つとなっています。

というのも、

神様がアブラハムおよび彼の子孫と約束したことの中に「子孫を増やす」ことが含まれている

からです(参照:創世記17章6節; 28章3節; 48章4節; 比較:創世記1章28節; 9章1, 7節; 35章11節)。

この意味でヨハネは、

神様が曽祖父アブラハムと交わした約束をこの苦難の地エジプトにあっても確かに果たしてくださったことに感謝している

と理解できます。

ヨセフを通して広がる祝福

今日の聖書個所にはもう一つ、神様とアブラハムとの約束を思い起こさせる表現が出てきます。それは創世記41章49節の「海辺の砂ほど多く」という表現です。

創世記の中で「海辺の砂ほど多い」という表現が出てくるのは、今日の個所を除くと他には二か所だけです(22章17節; 32章12節)。いずれの個所でも

アブラハムの子孫は海辺の砂ほど多くなる

と言われています。この神様とアブラハムとの約束の中には、アブラハムの子孫が増えることだけでなく、

アブラハムと彼の子孫を通して、地上の全ての人々が神様の祝福を受けるようになる

ことが含まれています(参照:創世記22章18節)。

今日の聖書個所でヨセフはこれ以上ない祝福を受けています。奴隷かつ囚人の身分から解放されただけでなく、ファラオに次ぐ地位に就き、一流貴族の仲間入りを果たし、子宝にも恵まれた訳です。この世的にはこれ以上ないサクセスストーリーです。

ところが、聖書の話はここで終わりません。ある意味、ここからが話の本番と言えます。というのも、創世記42章以降、

神様からの祝福を受けたヨセフを通して、エジプト全土および近隣諸国に住む人々に神様の祝福が広がっていく

様子が記されているからです。

イエスを通して今も広がる祝福

地上の全ての国民はアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになるという約束は、ある意味、今現在も実現されている最中にあります。

パウロは、

アブラハムとは直接の血縁関係のない非ユダヤ人たちもまた、アブラハムの子孫であるイエス様を信じる信仰によって、アブラハムと共に祝福される

と言っています(参照:ガラテヤの信徒への手紙3章8-9節)。

なお、ガラテヤの信徒への手紙3章8-9節でパウロの語る「祝福」とは、財産が増えたり、悩みや苦しみのない生活を送ることではありません。アブラハムと同じく、信仰によって罪赦されて神様の前に正しい(義)とされることです(参考:ガラテヤの信徒への手紙3章6-14節)。

また、

イエス様を信じる人は神の子供とされる

とも聖書は語ります(参照:ヨハネによる福音書1章12節)。

イエス様を救い主と信じる信仰によって、私たちの罪がもたらす滅びから救われ、神様の前に正しいものとされる。
そして、神様の子供として神様と共に永遠に生きることができるようになる。

これがイエス様を通して、イエス様を信じる者たちに与えられるこれ以上ない祝福だと聖書は語ります(比較:エフェソの信徒への手紙1章3-14節)。

結論

とは言われても、です。

神様の前に正しい者とされ、神様の子とされ、神様と一緒に永遠に生きると言われても、今のこの世の中で苦しみや悲しみが無くならないのだったら、早く死んでしまった方がマシだ

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

でも、想像してみてください。

もし仮にイエス様を信じた人が皆、信じた瞬間に死んでしまうとすればどうなるでしょうか?

この世からクリスチャンと呼ばれる人たちは皆、いなくなってしまい、この世の中で誰一人として、イエス様や神様のことを伝える人がいなくなってしまいます。

イエス様を信じた瞬間にクリスチャンたちが皆、死んでしまうのであれば、キリスト教がここまで世の中に広がることは決してなかったはずです。

もちろん、仮にクリスチャンが皆いなくなってしまうような世の中にあっても、神様は超自然的な方法で(夢や幻や奇跡を用いて)人々がイエス様を信じるように働くこともできたでしょう。

しかし、神様はあえて私たち人間を通して、イエス様を信じる人々が増えていくことを望まれたのです。別の言い方をすれば、

神様は神様からの祝福を受けた人を通して、その祝福の輪を広げていこうとされている

のです。これは、神様がアブラハムを選んだ時から変わることのない神様の御計画です。

私たちは

周りの人々を祝福するために神様からの祝福を頂く

のです。

神様の祝福は私たちだけのところに留まるものではなく、私たちのところから溢れ出て、私たちの周りに広がっていくもの

なのです。

でも、正直、神様の前に正しいとされるとか、神様の子とされて神様と共に永遠に生きると言われてもイマイチ実感が湧かないんだよね…

と思われる方がいるかもしれません。そのように感じることがあれば、思い出してください。

神様は神様の子とされたあなたと今、この世において、いついかなるときも共におられる

と約束してくださっています。

神様は今、この世において、神様の祝福の輪を広げるためにあなたを必要としておられる

のです。

苦難や困難にあるとき、私たちは目に見えるモノや人に頼りがちになります。

しかし、人ははかなくもろく弱い存在です。

他の人を傷つけることのない完全な人はいません。何があっても、どんなときでも信頼できる完璧な人はいません。人とははかなくもろく弱い存在なのです。でも、だからこそ、

人やモノではなく神様・イエス様に信頼する

ように聖書は勧めます。

イエス様は決してあなたを傷つけるようなことをするお方ではありません。

とはいえ、それはあなたが人生における苦しみや悲しみを経験しなくなるという意味ではありません。イエス様が共にいても苦しみや悲しみは経験します

しかし、イエス様は決してあなたを裏切ったり、あなたの人格を否定するようなことはなさいません。

苦しみや悲しみの中にあるあなたを見捨てたり、傍観するようなお方でもありません。むしろ、

イエス様はあなたと共にその苦しみや悲しみを経験し、あなたと共にその苦しみや悲しみを乗り越えてくださる

お方です。

どんなに辛いことがあったとしても、

もう生きているのが嫌だと思うようなことがあったとしても、

私は一人じゃないんだ
私は愛されているんだ
私のことを必要としてくれるお方がいるんだ

と思える。そして、

イエス様と共にこの苦しみ・悲しみを乗り越えていこう

と思える勇気と力と希望が心の底から湧き起こる。ここに、あなたに与えられている神様からの祝福の一つのかたちが表れています。

神様はあなたを通して、その祝福がこの世に広がることを望んでおられる

のです。

参考文献および注釈

  • Mathews, Kenneth. Genesis 11:27-50:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005.
  • Walton, John H. Genesis. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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