礼拝説教の要旨です。
- 日時:2018年8月19日(日)
- 場所:埼玉県さいたま市内での日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「神を知って人を愛す」
- 聖書個所:ルカによる福音書10章38-42節
38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)127頁1
導入
今日の説教個所には二人の女性が出てきます。一人はマルタ、もう一人はマリア。マルタはイエス様をもてなそうと一生懸命に動き回っていました。そんな忙しさの中で、なんと妹のマリアが自分を手伝うどころかイエス様の足もとに座って、その話に聞き入っている…。マルタは胸中穏やかではいられずイエス様に文句を言います(40節)。
このときマルタは、イエス様がマリアをしかりつけることを期待していたに違いありません。ところが、イエス様の答えはというと「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41-42節)
この場面のこの言葉だけを聞くと「マルタのようにではなくマリアのようになることをイエス様は望んでいる」と思いたくなります。が、ルカによる福音書10章全体の文脈を考えると、41-42節の言葉の真意は別のところにあるように思います。
隣人を自分のように愛する
確かに、42節を読むと、私たちにとってただ一つ必要なことは、イエス様の話を聞くことだけで、それ以外のことは何一つ重要ではないという印象を受けます。
しかし、10章5-7節には、人々、特に宣教の使命をもった人々をもてなすことの重要性が語られています。特に10章7節の言葉からイエス様は、
ことが分かります。
これと同じことが、10章25-37節に出て来る有名な「善いサマリア人」のたとえでも教えられています。そのたとえを通してイエス様が教えようとしていることは
というもの。
ですから、今日の箇所のマルタのように、食事や宿に困っているイエス様やイエス様の弟子たちをもてなすことは、彼らの隣人となることであり、隣人を自分のように愛することでもあります。だからこそ、イエス様はマルタに対して「今すぐに給仕をやめて、私の話を聞きなさい」とは言っていないのです。代わりにイエス様がおっしゃったこと、それは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」
イエスの話を聞く祝福
では、一体どうすればよいのでしょうか。
この質問に答える前に、もう一つだけ、ルカによる福音書10章に書かれていることを見ておきます。その箇所とは10章23-24節。そこでイエス様は弟子たちに、神の御業を見ること、また神の御言葉を聞くことができるのは幸いなことだとおっしゃっいます。
つまり、ルカによる福音書10章全体を通して、
とイエス様がおっしゃっていることが分かります。
ですから、今日の聖書個所において、マルタのしたこと、マリアのしたこと、どちらも大事なのです。が、しかし、一つ注意事項があります。それは、
ことです。
神を知って人を愛する
なぜその順番が重要なのかというと、イエス様・神様の言葉に耳を傾けるということは、
です。
それは例えば、神様がどういうお方で、私たちに対して何をしてくださったかを知ること。私たちは神様に愛されるために何かをする必要はなく、神様は私たちをありのままで愛してくださっていることを知ること。神様は私たちのために御自分の独り子であるイエス様を十字架につけても惜しくないほどに私たちの存在を愛してくださっていることを知ることです。
とはいえもちろん、神様は、私たちがそれまでの生活と何も変わらずに「ありのまま」で過ごすことを望んではおられません。神様は私たちに「神の子」としてふさわしく生きることを望んでおられます。が、しかし、私たちは神様のそうした期待に応え切ることができない存在です。遅かれ早かれ、誰もが神様の望む生き方から外れたことをしてしまいます。
でも、私たちがどんなに神様の期待を裏切ったとしても、神様が私たちを見捨てることはありません。見捨てるどころか、神様は辛抱強く、私たちが悔い改めて神様のところに戻ってくるのを待っていてくださるのです。
神様と私たちの関係は私たちの失敗によって左右されません。私たちが罪赦され神の子とされたのは、イエス様を信じる信仰のみによるのです。私たちを神の愛から引き離すものは何もありません(比較:ローマの信徒への手紙8章38-39節)。
この順番を間違えると自分の中で漠然とした不安が残り、無意識のうちに神様に愛されるために何かをしようとしてしまいます。そして、心の中の漠然とした不安のために、マルタのように周りの人の様子が気になり、自分と周りとを比べて自分を安心させようとしてしまうことになります。
もしマルタが、イエス様をもてなすことはイエス様の話を聞くことと同じくらい大事だということを知っていたなら、さらにもしマルタが、イエス様はマルタの存在そのものを愛していることを知っていたなら、彼女は多くのことに思い悩み心を乱すことはなかったと思います。
結論
イエス様・神様の言葉に耳を傾けるというのは、ただイエス様・神様についての知識を身につけることではありません。イエス様・神様の言葉に耳を傾けるというのは、神様のことを個人的に深く知ることを意味します。
それはつまり、神様が私たちをどれほど愛してくださっているか、どれほど気にかけてくださっているかを知ること。神様に愛されるために何かする必要はないことを知ること。むしろ神様は、御自分の独り子なるイエス様を私たちの罪のために十字架につけるほどに私たちを愛して下さっていることを知ることです。
この意味において、私たちにとってただ一つ必要なことは、確かに、神様・イエス様の話に耳を傾けること(神様を個人的に深く知ること)だと言えます。というのも、神様がどのようなお方で何をしてくださったかを個人的に深く知ることによって、それ以外の大事なこと、神と人を愛することは喜びをもって自然とできるようになるからです。
もしまだイエス様・神様のことがよく分からないという方がいらっしゃれば、是非とも覚えていてください。神様はあなたのことをありのままで愛していらっしゃいます。神様の前で格好よく振舞う必要はありません。そのままのありのままの自分でよいのです。
そんな神様があなたに願っていること、それは神様自身のことを知ってもらいたいということ。あなたに御自分のことを知ってもらうため、もっと言えば、あなたを御自分の子供として迎えたいと思うが故に、神様は御自分の独り子であるイエス様にあなたが神様の前に受けるべきだった罪の罰を背負わせたのです。それほどまでに神様はあなたを愛してくださっています。
もう既に神様のことを深く知っているという方は、自分が教会や友達や恋人・家族のために何かをしようとするときの動機をチェックしてもらいたいと思います。あなたが何かをするのは、神様の愛に迫られて、そうせずにはいられないからでしょうか。
もしそうでないのであれば、今一度、神様の愛と恵みを思い起こしてください。最初に感じた神様の愛を思い出してください。自分がどのようにしてイエス様を信じるに至ったか、なぜイエス様に従おうという決心をしたか、信じ始めた頃の気持ちを思い起こしてみてください。
神様を知って初めて人を愛することができます。自分は神様に心底愛されているんだということを実感せずに、人や神様を愛することはできません。まず神様の愛に満たされる必要があります。まず神様のことを深く知り、神様に対する愛と喜びをもって周りの人を愛することができますように。
参考文献および注釈
- Bock, Darrell L. Luke. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.