礼拝説教の要旨です。
- 日時:2022年8月14日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「歩むべき道」
- 聖書個所:出エジプト記18章1-27節1
導入
今日の聖書個所にはモーセのしゅうとエトロが彼を訪ねに来た場面が記されています。
そこで彼は、神様がイスラエル民族に表した恵みと救いの御業についてモーセから詳しく話を聞かされます。
するとエトロは、
とほめたたえます(出エジプト記18章11節)。
今日はこれまでの出エジプト記の話を振り返りながら、ミデヤンの祭司エトロに他の神々よりも偉大だと言わしめた神様の恵みと救いの御業を思い起こしたいと思います。
そして、その
を共に考えていきたいと思います。
寄留者を救う助け主
その前にまず、
を振り返っておきます。
モーセは生まれてすぐ、神様の守りと導きによってエジプトのファラオの娘に育てられるようになりました(出エジプト記2章1-10節)。
成人したモーセはある日、イスラエル人を虐げていたエジプト人を殺してしまい、ファラオから命を狙われるようになります(2章11-15節)。
そこでモーセはミデヤンの地に逃れ、祭司エトロの娘ツィポラと結婚します(2章15-21節)。
このとき、モーセとツィポラとの間に息子が生まれ、ゲルショムと名付けられます。それはモーセが異国の地で寄留者となったことにちなんでつけられた名前です(18章3節;比較:2章22節)。
なお、モーセにはもう一人、エリエゼルという息子がいます。それは、モーセが神様の助けと導きによってミデヤンに逃れた結果、ファラオに命を狙われなくなったことにちなんだ名前です(18章4節)。
ここで興味深いのは、これら
ことです。
事実、イスラエル民族は異国の地エジプトで寄留者となっていました。そして、ファラオの剣(強制労働)で苦しめられていたところを神様によって救い出された訳です。
エトロは間違いなく、モーセから二人の息子の名前の由来を聞いていたはずです。
そして、モーセの身に起きたような神様の救いの御業がスケールの全く違うかたちでイスラエル民族にももたらされたと聞いたとき、モーセの信じる神様に対する興味と関心は益々、高まっていったのではないかと思われます。
他の何者よりも偉大な造り主
エトロは神の山ホレブ(シナイ)に宿営していたモーセのもとに彼の妻ツィポラと二人の息子を連れて訪問します(出エジプト記18章2-5節)。
するとモーセはエトロを手厚くもてなし、これまでに起きた出来事を詳しく話します(18章7-8節)。
その中でモーセは、神様がエジプト人にもたらされたいわゆる「10の災い」および紅海(葦の海)においてエジプトの軍隊が全滅したことを話したはずです。
そこには
ことがはっきりと示されています。
また、それらの「災い」は多神教の神々を崇拝していた人たちにとって、
と映ったことでしょう。
ミデヤンの祭司エトロがその当時、何・誰を崇拝していたのかは定かではありませんが、彼もまたエジプト人たちと同じく、
ようです(参考:18章11節)。
人の歩むべき道を示す救い主
でもあります。
イスラエル民族はエジプトを出てからホレブ(シナイ)山に着くまでの道中、様々な困難に遭遇しました(出エジプト記15章22節--17章16節)。
しかし、
それは
ためでもありました(15章26節)。
そんな神様の思いが通じたのか、今日の聖書個所にはイスラエル民族が神様の御心(掟と律法)を知ろうとモーセのもとにやってくる様子が記されています(18章15-16節)。
神様の「律法」と聞くとなにやら堅苦しくて私たちの生活を縛るものという否定的なイメージをもたられるかもしれません。
しかしながら、ここに記されているように、神様の律法というものは本来、私たちの生活における問題解決に役立つもの、言うなれば、私たちの生活をスムーズにする潤滑油のようなものであることが分かります。
聖書、特に旧約聖書の中の律法には「-してはならない」「-しなさい」という掟や決まりが沢山出て来ます。
しかし、それらは私たちの人生を縛るものではなく、
です。
だと言えます。
のです(比較:出エジプト記18章20節)。
結論
神様はエジプトで奴隷状態にあったイスラエル民族を救い出されました。
そのとき神様はエジプト人たちに様々な災いをもたらすとともに、イスラエル民族はそれらの災いから免れるようにされました。
そこには
が表されています。
その神様の圧倒的な偉大さは異教の神に仕えていたミデヤンの祭司エトロも認めるほどでした。
この
でもあります。
神様はその恵みと憐れみによって、救われるに値しない民をその困難から救い出されました。
そして
です。
です。
と言えます。実際、
例えばイエス様は、私たちが互いに仕え合うべきことを示すため、自ら弟子たちの足を洗われました(ヨハネによる福音書13章14-15節)。
またイエス様は、私たちが不当な苦しみにあっても耐え忍ぶことを示すため、自ら十字架の上で苦しみを耐え忍ばれました(ペトロの手紙一2章20-21節)。
さらにイエス様は、私たちが互いに愛し合うべきことを示すため、自らが十字架の死に至るまで弟子たちを愛し抜かれました(ヨハネによる福音書15章12-13節)。
イエス様が死んで復活されたのは、私たちイエス様を信じる者たちもまたイエス様が再臨されるとき、イエス様と同じように復活することを示すためでした(コリントの信徒への手紙一15章20節)。
とはいえ、もちろん、
私たち人間の努力や意志の力だけでは到底、不可能なことです。
でも、そのために、イエス様を信じ従おうとする私たちクリスチャンのうちには神様の霊である聖霊が住んでくださっています。この
最後に、イエス様の示してくださる道を歩もうとするとき、決して忘れてはならないことがあります。
それは、
ということです。
イスラエル民族がエジプトの奴隷状態から救われたのは神様の一方的な恵みによるものでした。
のです。
律法を守らなければ救われないのではありません。
聖書・イエス様の示す生き方を生きなければ救われないのでもありません。
です。また、
イエス様の示される道は決して平坦で楽しい道ではありません。
山あれば谷あり、苦しみや悲しみも伴う道です。
けれども、たとえどんな山や谷に出くわすことがあったとしても、
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.