神が共におられた人々④:ヨセフ―神の恵みと祝福―

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今回、(旧約)聖書の中で「神が共におられた人々」の一人として紹介するのは「ヨセフ」です。

ヨセフは前回、下記の記事で紹介したヤコブの息子になります。

神が共におられた人々③:ヤコブ―神の恵みと守り―
神様の守りとは、この世の苦しみ、悲しみ、痛みを神様と共に乗り越えるための勇気と力と慰めを与えられ、神様との関係性が更に深められていくことの中にあるのではないかと思います。どんな状況でも神様がいつも共にいてくださるという祝福を心から味わい知ることができますように。

このヨセフについて、個人的に面白いというか意外だと思うことの一つは、

神様がヨセフに直接語り掛ける場面が一度もない

ことです。

これまでに「神が共におられた人々」として三人の人物(イシュマエル、イサク、ヤコブ)を紹介しました。1

その中で、神様から直接語り掛けられた場面が聖書に記されていないのはイシュマエルだけです(もちろん、聖書に記されていないだけで、実際には神様がイシュマエルにも語り掛けたことがある可能性は否定できません)。

しかしながら、イシュマエルとヨセフとの間の決定的な違いは、聖書が彼らの人生について記す情報量(ページ数)の差です。

イシュマエルは、ある意味、聖書の中では脇役的存在で、登場する場面は非常に限られています(主に創世記16章と21章の半分、そして25章の一部)。

対して、ヨセフに関する話は創世記37章から50章のほとんどを占めます。

それほどまでに詳しく記されているヨセフの人生において、神様がヨセフに直接語り掛けられた場面が一度も出てこないのはとても不思議です。2

けれども、確かに聖書は

主(神)がヨセフと共におられた

と記します(創世記39章2、21、23節)。

そして、主(神)がヨセフと共におられたことは、

ヨセフの周りの人々(聖書の神様を信じていないエジプト人たち)が見ても明らかだった

のです(参照:創世記39章3、23節;41章38節)。

今回は「主(神)が共におられたヨセフ」の生涯を簡単に振り返りながら、聖書の神様について共に学びたいと思います。

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売り飛ばされるヨセフ

Joseph's Brothers Sell Him into Captivity By Konstantin Flavitsky - Konstantin Flavitsky, Public Domain, Link

冒頭でヨセフはヤコブの息子と紹介しましたが、実はヤコブには4人の女性との間に12人の息子がいます(参照:創世記35章22-26節)。

その12人の中でもヨセフはヤコブの大のお気に入りでした。その可愛がり方はヨセフに特製の服を作ってやるほど(創世記37章3節)。3

父ヤコブからそんなにも愛されるヨセフを見て、面白くないのは他の兄弟たちです。事実、聖書には、

ヨセフの兄たちは彼を憎み、落ち着いて話すことができなかった

とあります(4節)。

そんな兄たちの憎しみを更に掻き立てる出来事が起こります。

ヨセフが二つの夢を見る

のです。

えっ、でも夢って誰もが見るものでしょう!?

と思われると思います。もちろん、その通りなのですが、問題となるのはヨセフが見た夢の内容です。

一つ目の夢は、ヨセフと兄弟たちが畑で束を作る夢。その夢の中で

ヨセフの兄弟たちの束がヨセフの束を伏し拝んだ

とヨセフは兄たちに語ります(7節)。

そんなことがあってたまるか!お前は自分の立場が分かっているのか!

という兄たちの心の声が聞こえてきそうです。実際、

その夢を聞いた兄たちはヨセフを益々憎む

ようになりました(8節)。

二つ目の夢も一つ目の夢と意味するところはほぼ同じ夢。その夢の中でヨセフは、

太陽と月と11個の星々が彼を伏し拝む

のを見ます(9節)。

ヨセフはこの夢の内容を兄弟たちだけでなく父ヤコブにも告げます。

すると、ヨセフを溺愛していた父親もさすがに「何を言っているんだ、お前は。家族全員(父母と11人の兄弟たち)がお前を伏し拝むなんて…そんなことがある訳ないだろう!?」とヨセフをたしなめます(10節)。

こうして、ヨセフと兄たちの関係は一層悪くなり、兄たちはヨセフを憎み、妬むようになります(11節)。

それにしても、

なぜヨセフは一度ならず二度までも、自分が見た夢をわざわざ兄たちに伝えて、彼らの憎しみを(更に)買う真似をしたのでしょうか?

このときヨセフは17歳だった記されています(2節)ので、ただ悪気もなく無邪気に兄たちに自分が見た夢を伝えたとは考えにくい年齢です。

それでは、ヨセフは

父親に特別扱いされていることで兄たちから憎まれていたことに気付いていなかったのか!?
憎まれていても父親が守ってくれるから大丈夫と思っていたのか!?

はたまた

兄弟たちに自分が見た夢を伝えるように神様からお告げを受けた(ただし、神様からそのようなお告げを受けたことは兄弟たちには知らせないようにとも命じられた) のか!?
残念ながら、その真相は分かりません。

が、いずれにしても、この出来事を見る限りにおいて、このときのヨセフは

まだ感受性に乏しく、ある種のうぬぼれや傲慢さをもっていた

ように見受けられます。4

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そんなある日、羊の世話をしている兄たちの無事を確かめるため、父ヤコブはヨセフを使いに出します(創世記37章13-14節)。

そこでヨセフは、家族が住んでいたヘブロンという場所から北に80キロほど離れたところ(徒歩で2日ほどの道のり)にあるシェケムに出かけます。

しかし、シェケムで兄たちを見つけることができずに辺りをさまよっていると一人の人に出会います。その人は、ヨセフの兄たちがドタンという場所に移動したらしいことを教えてくれます(15-17節)。

こうして、シェケムから更に北に20キロ余り(徒歩で約半日)の場所にあるドタンでヨセフは無事に兄たちを見つけることができました。

ヨセフが徒歩で移動したとすると、父親に兄たちの無事を確かめるように言われてから100キロ以上の道のりを歩いたことになります。つまり、ヨセフは少なくとも丸三日はかけて兄たちを探し当てた計算になります。

現代の私たちの感覚からすればちょっとびっくりしてしまいますが、今から3000年以上前の出来事ということを考えれば、それほど驚くべきことではないのかもしれません。5

いずれにしても、ヨセフはその間ずっと父親からもらった特製の服を着ていました(参照:23節)。

ヨセフの兄たちは自分たちを捜しにやって来たヨセフを殺そうと話し合いますが、最終的には

近くを通りかかった商人にヨセフを売り渡す

ことにします(18-28節)。

それから彼らはヨセフから奪い取った父親特製の服を殺した雄山羊の血に浸して父ヤコブに見せます。ヤコブはそれを見てヨセフが死んでしまったと思い、何日間も嘆き悲しみます(31-34節)。

ヨセフはというと、商人によってエジプトに連れて行かれ、そこでファラオに仕える侍従長のポティファルに買い取られることとなります(36節)。

それまでは父親の愛情を一身に受け、周囲からも一目置かれ、順風満帆で何不自由のない生活を送っていたヨセフ。

そんな彼が、

ある日突然、言葉も分からない異国の地で、奴隷としての生活を送るようになる

訳です。

ヨセフにしてみればまさに青天の霹靂。天国から地獄に一気に突き落とされたような生活環境の変化です。

兄さんたちはそんなにも僕を憎んでいたなんて知らなかった…けど、僕が一体どんな悪いことをしたっていうんだ!
お父さんは助けに来てくれるだろうか…ひょっとしたら、もうお父さんや弟に会うことはできないのかもしれない…
あんな夢なんか見なけりゃよかった!
これから自分の生活はどうなるんだろうか?
ポティファルというエジプト人はどんな人物なんだろうか?
言葉も通じないし、見たことないものばかりあるし、これからどうなってしまうんだろう…

様々な不安や恐れ、疑問や疑念でいっぱいになっていたであろうヨセフの心の中。

絶望と孤独で生きる意欲さえなくなろうとしていた

かもしれません。

でも、そんな人生のどん底ともいえる状況にあって、聖書は記すのです。

主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。【創世記39章2節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉73頁6

監獄に入れられるヨセフ

Joseph in prison By Gerbrand van den Eeckhout - This image is available from the National Library of WalesYou can view this image in its original context on the NLW CatalogueThis image is also available at Art UK, Public Domain, Link

ヨセフは彼の人生の中で恐らく、最も悲惨な状況にありました。

それまで何不自由なく、一家の中で特別扱いされていた生活から一瞬にして、

言葉も文化も異なり、知り合いも親戚も頼る者も誰もいない異国の地で、一介の奴隷としての生活が始まった

のです。

しかも、その変化の原因は、(母は異なるとはいえ)同じ父をもつ兄たちが自分を商人に売り渡したからです。

精神的なショックとこれからの人生に対する不安と恐れは限界値に達しようとしていた

かもしれません。でも、

そんな極限状態にあるヨセフと神様は共におられ、ヨセフは「成功する者」となった

と聖書は記します(創世記39章2節)。7

その言葉の通り、奴隷ヨセフはファラオの侍従長であったエジプト人の主人ポティファルの好意と信頼を得て、その家の全財産の管理を任せられるようになります(39章3-6節)。

そして、

神様はヨセフの故にポティファルの家をも祝福された

のです(5節)。

神様はヨセフの曽祖父アブラハムに対して、アブラハムの子孫を通して地上の人々が祝福されるようになると約束されました(創世記22章18節)。そのアブラハムとの約束の一部がヨセフを通して実現された訳です。

約束を必ず果たす神様の誠実さ

の一端が垣間見えます。

しかしながら、

ヨセフのサクセスストーリーは長く続きません。

なんと、ポティファルの妻がヨセフに不倫を迫るのです(創世記39章7節)。

とはいえ、ヨセフがポティファルの妻の誘いに応じた訳ではありません。

事実、ヨセフは頑なにポティファルの妻の誘いを断ります。が、しかし、

逆恨みした妻の策略にはめられ、ヨセフは監獄に入れられる

ことになります(11-20節)。

ヨセフの兄たちの憎しみや妬みを買ってしまった時には、ヨセフの中にも少なからずうぬぼれや傲慢さといった責められるべき部分がありました。

けれども、ポティファルの妻との間の出来事に関していえば、ヨセフに責められるべきところは見当たりません。

ヨセフは全くの冤罪で監獄に入れられてしまう

ことになります。

ここで、

ヨセフが監獄に入れられたとき、神様は一体どこにいたんだろう?
神様がいつもヨセフと共にいたのならば、冤罪にかけられて監獄に入れられるなんてことは起こるはずがないんじゃないか!?
これでもヨセフは「成功する者」になったと言えるのか!

と思いたくなる人がほとんどだと思います。

そんな私たちの思いを見透かしたかのように聖書は、ヨセフが監獄に入れられた直後に次のように記しています。

しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。【創世記39章21節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉74頁

神様が共にいれば問題や困難に遭わなくなる訳ではありません。

むしろ、神様の力と助けを借りながら、神様と共に神様が望まれる善いこと・正しいことをしていると、そのことをひがんだり、妬んだり、逆恨みする人々に遭遇することがあります。

そして、そのような

人々のひがみや妬み、逆恨みによって、苦しみを受けることもある

のです。

その最たる例がイエス・キリストです。

神様はいついかなるときもイエス様と共におられました。そして、イエス様は多くの人々から悪霊を追い出し、彼らを癒し、彼らの友となられました(参考:マルコの福音書1章32-34節;2章15節)。

神様の目から見て何ひとつ悪いことをしなかったイエス様

なのにもかかわらず、イエス様をメシア(救い主)として受け入れない(受け入れたくない)人々はイエス様を憎み、妬み、逆恨みしてイエス様を殺そうとしたのです(参考:ヨハネの福音書7章7節;11章47-53節;マタイの福音書27章18節)。

結果、

神様の独り子イエス様は無実の罪で十字架にかけられてしまいます。

そこに善や正義はありません。

あるのは憎しみ、妬み、恨み、蔑み、痛み、嘲り、罵りという悪(悪意)だけ。

イエス様が十字架につけられたとき、神様は一体どこにいたんだろう?
神様がいつもイエス様と共にいたのならば、冤罪にかけられて十字架に架けられるなんてことは起こるはずがないんじゃないか!?

と思いたくなります。が、しかし、

神様は人々の成した悪を用いて、人々を罪の滅びから救うという最高の善を成し遂げられた

のです。

神様の目からみて正しい・善いことができない私たち人類を、その罪の滅びから救うため、神御自身が人の姿をとって私たちの悪(罪)の全てをその身に受けて、私たちの身代わりとして十字架で死んでよみがえってくださった。

そんな

イエス様を私たちの救い主と信じ信頼して、神様・イエス様の望まれる生き方をしようと決心するとき、私たちの罪は赦され、神様の子供とされるという祝福を受けます(比較:エペソ人への手紙1章3-10節)。
本来ならば救われるに値しない私たち人間がイエス様を信じる信仰によって救われ、イエス様と共に人生を歩める

ようになる。

神の恵みです。

本来ならば受けるに値しない祝福を受けるというのは、ヨセフの生涯にも当てはまります。

というのも、そもそものところ、神様がヨセフと共におられたのは、ヨセフが何か特別なことを成し遂げたからでも、人格的に素晴らしかったからでもありません。

神様がヨセフと共におられたのは、ただ神様がヨセフを祝福し、彼を通して多くの人々を祝福しようとされたからです(それによって、アブラハムとの約束の一部を果たすためでもあります)。

別の言い方をすれば、

神様は御自分が共にする人々を通して、神様の恵みと祝福を広げようとされている

と言えます。

実際、ヨセフは監獄に入れられた後、最終的にはエジプトのファラオに次ぐ地位に就くようになり、彼を通して飢饉で苦しむ多くの人たちの命が救われるようになります。8

神様はヨセフと共におられ、ヨセフを通して神様の恵みと祝福が広がっていった

のです (参照:創世記45章4-8節)。

と同時に、

人々の謀る悪をも善を成すために用いられ、多くの人々を生かすことができる神様の全知全能性と絶対的な主権

も見て取れます(参考:創世記50章20節)。

まとめ(ヨセフと共におられた神)

ヨセフは父ヤコブから特別な愛情を受けました。が、兄弟たちからは憎まれ、妬まれ、遂には彼らに捕らえれて、異国の地に売り飛ばされてしまいました。

それまでの順風満帆な生活から突き落とされ、人生のどん底にあったであろうとき、神様はヨセフと共におられました。

そして、売り飛ばされた先の家の主人の好意と信頼を得て、その家の全財産を任されるほどになります。

が、しかし、今度は家の主人の妻に逆恨みされ、無実の罪で監獄に入れられてしまいます。

にもかかわらず、神様は変わらずヨセフと共におられたと聖書は記します。

残念ながら、

神様が共にいれば問題や困難に遭わなくなる訳ではありません。
問題や困難に遭うからといって、突然、神様が共におられなくなった訳でもありません。

神様の力と助けを借りながら、神様と共に神様が望まれる善いこと・正しいことをしていると、そのことをひがんだり、妬んだり、逆恨みする人々に遭遇することがあります。

しかし、

神様はそんなひがみや妬みや逆恨みがもたらす悪をも用いて、神様の恵みと祝福が広げることができる全知全能で絶対的な主権をもったお方

です。そんな

神様の独り子イエス様が、あなたといつも共にいて、神様の恵みと祝福で全世界を満たそうとされています(マタイの福音書28章18-20節)。

そのために神様・イエス様があなたに求めらておられること、それは、

イエス様をあなたの人生の救い主として信じ信頼し、神様・イエス様の望まれる生き方をしようと決心する

ことなのです。

参考文献および注釈

  • Hamilton, V. P. “Joseph.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
  • Kitchen, K. A. “JOSEPH.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, and J. I. Packer. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
  • Mathews, Kenneth. Genesis 11:27-50:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.
  1. ヤコブの前には彼の父イサクと伯父のイシュマエルを紹介しました。興味のある方は下記の記事をご覧ください。「神が共におられた人々①:イシュマエル―全人類に対する神の憐れみ―」 「神が共におられた人々②:イサク―神の恵みと誠実さ」
  2. ちなみに、ヨセフに関する話が始まる37章から50章において、神様が直接的に誰かに現れる場面は一ヵ所だけです。そこで神様は年老いたヤコブに対して語り掛けられています(参照:創世記46章1-4節)。
  3. ヤコブがヨセフのために特別に作った服は「新改訳 2017」では「あや織りの長服」、「聖書協会共同訳」では「長袖の上着」と訳されています。その服を表すヘブル語の言葉の正確な意味ははっきりとは分かっていないようです。詳細は下記参考文献の「創世記37章3節」の注解を参照。Gordon J. Wenham, Genesis 16-50, Word Biblical Commentary (Waco, Tex.: Word Bks, 1993).
  4. それまでの創世記に登場する人物に比べて、ヨセフは目に見えて悪い行いをしていない(どちらかといえば模範的な人物として描かれている)のは特筆すべきことです。V. P. Hamilton, “Joseph,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 606; しかしながら、ヨセフもまた罪を犯すことない完全な人間ではなく、長所もあれば短所もある一人の人間であることを忘れてはなりません。聖書が記すヨセフの性格について、詳しい解説は下記を参照。Kenneth Mathews, Genesis 11:27-50:26, The New American Commentary (Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005), 671–673.
  5. ヨセフが生きた正確な年代は分かっていませんが、紀元前1720-1550年頃と考えられています。K. A. Kitchen, “JOSEPH,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 608.
  6. 特に記載のない限り、聖書の引用は「聖書 新改訳2017」によります。
  7. 「新改訳2017」で「成功する」と訳されている言葉は「聖書協会共同訳」では「事が順調に運ぶ」と訳されています。
  8. ちなみに、この飢饉はヤコブの家族が住んでいた地域も襲ったため、ヨセフの兄たちも食料を求めてエジプトにやってきます。そして彼らは、ヨセフとは知らずに彼の前にひれ伏し、ヨセフの見た夢が現実のものとなります(創世記42章6節)。
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