礼拝説教の要旨です。
- 日時:2023年4月16日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「奪い去られない喜び」
- 聖書個所:ヨハネによる福音書20章11-18節1
導入
先週はイースター(復活祭)でした。Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では今日からペンテコステ(5/28)までの間、「復活」にちなんだ聖書個所からの説教となります。
今日の聖書個所には復活したイエス様がマグダラのマリアと出会う場面が描かれています。
この個所で今日、特に注目したいのはヨハネによる福音書20章17節のイエス様の言葉です。
というのも、このイエス様の言葉・対応は一見すると、少し素っ気ないというか、冷たいように感じてしまうからです。
実際、このときのマグダラのマリアからすれば、てっきり死んでしまったと思っていたイエス様が目の前に現れた訳です。
感動と喜びのあまりに思わずイエス様を抱きしめたいと思ったことでしょう。
また、目の前のイエス様は亡霊や幻覚・錯覚ではないことを確かめたいとも思ったはずです。
ところがイエス様は、そんなマリアの気持ちを受け止めて優しい言葉をかけるどころか、彼女に自分から離れて、自分が父なる神様のもとに上ろうとしていることを他の弟子たちに伝えるようにお命じになりました。
今日はヨハネによる福音書20章17節のイエス様の言葉の真意を探りながら、
を考えたいと思います。
マリアに出会うイエス
マグダラのマリアはイエス様を手厚く葬るため、イエス様の墓をもう一度訪れていました(ヨハネによる福音書20章1節;参考:マルコによる福音書16章1節)。
ところが、マリアが墓に来てみると、侵入者が墓に入ることを防ぐために置かれていた大きな石がとりのけられています。
マリアはその状況を見て、イエス様が復活したとは考えず、誰かがイエス様の遺体を墓から取り去って行ってしまったと思いました(ヨハネによる福音書20章3, 13, 15節)。
自らが愛し、尊敬してやまなかったイエス様に最後の別れを告げるべくやってきたにもかかわらず、そのイエス様の遺体が何者かに取り去られてしまったと思った訳です。
そのときのマリアの悲しみと落ち込みは相当なものであったことは想像に難くありません。
嘆き悲しむマリアの背後に復活したイエス様が現れます。
けれども、このときマリアは、その人物がイエス様だとは分からなかったようです(15節)。
しかし、イエス様に「マリア」と言われた途端、マリアはその人がイエス様だと分かりました(16節)。
そのときマリアはイエス様の足を抱き、その御前にひれ伏したようです(参考:マタイによる福音書28章9節)。
するとイエス様はマリアにおっしゃいます。
私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。【ヨハネによる福音書20章17節】
出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)205頁
喜びに変わる悲しみ
今日の個所ではイエス様の遺体が取り去られたと思ったマリアが泣いていたことが強調されています(ヨハネによる福音書20章13, 15節)。
それは恐らく、イエス様が十字架に架けられる前夜、最後の晩餐の席で弟子たちに言った言葉(預言)が成就したことを強調するためだと考えられます。
ヨハネによる福音書16章20節でイエス様は、
とおっしゃっています。このイエス様の言葉通りの出来事がマグダラのマリアの身に起きた訳です(比較:ヨハネによる福音書20章20節)。
奪い去られない喜び
イエス様は更にヨハネによる福音書16章22節において、
ともおっしゃいます。でも、
その理由は、
です。
です(参考:エフェソの信徒への手紙1章13-14節)。
イエス様は最後の晩餐の席で、
とおっしゃいました(ヨハネによる福音書14章16-17節)。この
ただし、
ともイエス様はおっしゃいます(ヨハネによる福音書16章7節;比較:ヨハネによる福音書7章39節)。
マグダラのマリアが復活したイエス様に出会ったとき、この弁護者なる聖霊はまだ弟子たちの所には来ていませんでした。
がありました(参考:ヨハネによる福音書7章39節;使徒言行録2章32-33節)。
だからこそイエス様は今日の個所でマリアに、自分はこれから父なる神様のもとに上ると他の弟子たちに伝えるようにお命じになった訳です
結論
イエス様は十字架で死んでよみがえられて終わりではなく、
ことになっていました。
この一連の流れの最中でイエス様はマグダラのマリアとお会いになった訳です。
確かにマリアとしては、復活したイエス様と今度こそはずっと一緒にいたいという思いが強かったかもしれません。
しかし、復活したイエス様はまた直ぐに父なる神様のもとに上っていってしまう訳ですから、再び(物理的な)別れの時がきます。
対して、イエス様が神様のもとに上った後に遣わされる聖霊は信じる者の内に住み、何があっても、どんなときも一緒にいてくださる存在です。
その関係が奪い去られることはありません。
また、絶対不変な関係に基づく喜びも誰からも奪い去られることはありません。
マリアにとって、復活したイエス様との別れは確かに辛いものではあります。
でも、
だと言えます(参考:ヨハネ16:21)。言うなれば、
と言えるかもしれません。
ある人にとってそれは有名になることかもしれません。
人から認められることかもしれません。
好きなモノを手に入れることかもしれません。
好きなあの人と付き合う・結婚することかもしれません。
それがどのようなモノであれ、
です。
いつかは必ず、その喜びが失われる時が来ます。
しかもその喜びが失われたときに感じる苦しみ・悲しみ・痛みは相当なものです。
人によっては、あまりの喪失感の故に生きる意欲や意味さえも失ってしまうかもしれません。
イエス様の時代の弟子たちも、イエス様というかけがえのない存在を失ったときには同じような喪失感を感じていました。
でも、そのような喪失感に打ちひしがれている私たちに対して、イエス様は
と語り掛けてくださいます。
とはいえもちろん、自分の喜びの源となっていた大事なモノやヒトを失った苦しみが簡単に消えることはないでしょう。
この世に生きる限り、その苦しみが完全に消えることはないのかもしれません。
でも、
この世だけでなく、死んだ後も永遠に続くものがあります。それは
です。
たとえこの世で何が起きたとしても、
神様だけは決してあなたを見捨てることはありません。
たとえこの世の誰もあなたを理解してくれない、受け入れてくれない、愛してくれないと思うことがあったとしても、
神様だけはあなたを完全に理解し、受け入れ、愛してくださいます。
たとえこの世の誰もあなたを必要としてくれない、自分は独りぼっちだと思うことがあったとしても、
神様だけはいつもあなたと共にいてくださり、あなたを用いて、その御心をこの地に成そうとしておられます。
そのことをあなたに示すために
のです。
確かに、
この世においては苦しみがあります。
痛みがあります。
悲しみがあります。
しかし、それらの
からです(ローマの信徒への手紙8章39節)。
参考文献および注釈
- Burge, Gary M. John. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2000.
- Carson, D. A. The Gospel according to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
- Michaels, J Ramsey. The Gospel of John. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2010.