今回は「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」に関する三回シリーズの最終回。
これまでの二回は、キリスト教(聖書)の神のもつ様々な側面の中で「造り主なる神」と「救い主なる神」という側面をみてきました。
これら二つの側面は、聖書全体を通して語られる「神の救いの物語」の流れでいうと、以下の4つの内の最初の三つにみられるものです。1
- 神が人も含めた天地万物を造った。
- しかし、人が神に従わなかったため、様々な問題が発生した。
- その問題の根本解決(救い)として、神の子イエスが地上に来て十字架にかかり、2死んで復活し、2天に昇った。
- イエスが再びやって来て、全てを正しく裁き、新しい天地が創造され、神の計画が完全に果たされる。
今回注目するのは上記の4つ目にみられる「裁き主なる神」としての側面。2
なお、「造り主なる神」の側面に注目すると、創造主なる神と被造物なる人間(天地万物)とは非常にかけ離れた関係にあるという印象を受ける人は多いと思います。
その一方で「救い主なる神」の側面に注目すると、創造主と被造物の間の壁を乗り越えてまで人々の近くにいてくれる(いようとする)神の愛と恵みと憐れみがみてとれます。
そして、今回の記事で注目する「裁き主なる神」の側面は上記二つの側面から垣間見える神の印象とはまた違ったイメージを与えてくれると思います。
しかしながら、いずれの側面も等しくキリスト教(聖書)の神のイメージ・性質を表すものですので、どれか一つのイメージ・性質だけを強調しすぎるのではなく、全てのイメージ・性質をバランスよく理解することが大事です。2
ということで、今回の記事の最後には総まとめとして、これまでにみてきた神の性質を記すつもりです。
それでは、今回の話の流れ(目次)は以下の通り。
裁き主なる神の義(righteousness)
前回の記事でみたように、
です。
さらに、前々回の記事でみたことの一つには、
ということがありました。
それならば、です。
と思われる方は多いと思います。
しかし、非常に残念なことに、神が「何でも実現できる」というのには条件がありました。その条件とは
という条件。今回の「裁き主なる神」に関する性質でいうと、特に
性質を持っていると言えます。言い換えれば、
とも言えるでしょう。
ここで「罪」とか「悪」といった言葉を使いましたが、そもそものところ、何が「罪」で、何が「悪」であるかというのは、何らかの判断基準がなければ決めることができないものです。
実際、「広辞苑(第五版)」によると「罪」の定義は以下のようにあります。
罪…①悪・穢(けがれ)・禍(わざわい)など、神の禁忌をおかし、その報いを受けるべき凶事。②社会の規範・風俗・道徳などに反した、悪行・過失・災禍など。また、その行いによって受ける罰。③刑罰を科せられる不法行為。法律上の犯罪。④仏教・キリスト教で、その教法を破る行為。あるいは、その人の背負っている罪業。
出典:新村出記念財団『広辞苑 第五版』(岩波書店、2002年)
上記4つの定義いずれに関しても何らかの決まり(それぞれ神の禁忌、社会の規範・風俗・道徳、法律、教法)を破ることが「罪」となっています。
「悪」についても同様に、何が「善」で何が「悪」かを判断する基準(正義、道徳、法律など)が必要となります。
こうした、
です。そして、この「裁き主なる神」がすることは全て「正しい」ことでもあります。
一言でいえば、
存在であると言えます。この性質を神の「義(righteousness)」と呼びます。3
キリスト教(聖書)の神は常に「正しい」ことをする。この中に、先にみた「罪を罰すること」や「悪を野放しにしないこと」などが含まれているのです。
が、ここで一つ注意点。
というのも、神のなさることは確かに全て正しいことなのですが、その
例えば、この世で生きる上で様々な苦しみや悲しみを体験します。社会の中には不平等や不正がはびこっています。人間的に考えると、苦しみや悲しみ、不平等や不正は出来るだけ早く解決され、皆が幸せな人生を過ごせるようになるのが「正しい」ことだと思ってしまいます。
しかし、キリスト教(聖書)の神は、ある意味、この世に苦しみや悲しみ、不平等や不正がはびっこている状況を許している(耐え忍んでいる)訳ですから、
と言いたくなってしまいます。4
この状況に対して聖書がはっきりと語っていること、それは、
ということ(比較:ヨハネの黙示録20章12-15節)。また、「終わりの時」が直ぐにやってこない理由として、
からと聖書は語ります(参照:ペトロの手紙第二3章9節;比較:マタイの福音書13章24-30節)。
なお、ここでいう「終わりの時」には、イエスが再び地上にやって来て、正しい裁きがなされ、新しい天と地においてイエスを信じる者が神と共に永遠に過ごすようになるとされています(参照:マタイの福音書24章27-42節;25章31-46節;ヨハネの黙示録21章1-8節)。聖書の語る「世の終わり(終末)」について興味のある方は下記の記事をご覧ください。
もう一つ、神の「正しさ」について人間の直感・常識では納得できかねることがあります。それは、
お方であるということ。5
「罪の大小を問わず」というのは、神の前ではどんな罪も等しく「死罪」に相当するけれども、悔い改めるならば等しく赦されるということ(比較:ヤコブの手紙2章8-11節;ローマ人への手紙6章23節)。
例えば、人間的に考えて、取るに足らない(誰もがやっている)と思われる罪(例えば嘘をつくことや悪口をいうこと)を犯した人であろうと、絶対に許されるべきでない罪(例えば殺人や強姦など)を犯した人であろうと、神の前には等しく罪人であり、死をもってしか償うことができない存在であると聖書は言うのです。
しかし、どんな罪を犯したとしても、イエスがその罪の代価(私たちの「命」に相当する)を自らの「命」をもって償ってくれた信じ、神の望む人生を歩み直そうと決心する(悔い改める)ならば、キリスト教(聖書)の神はその罪を赦してくれるのです。
これは人間の価値基準からすると、非常に「不平等」に思えてしまいます。というのも、例えば、
- 真面目と誠実が取り柄で人様に迷惑をかけまいと懸命に生きてきた人
- 人を平気で騙し、傷つけ、自分の欲しいものは力づくでも手に入れてきた人
その両者が神の前には等しく「罪人」であり、そのどちらも神の前に罪を赦される方法は同じ(イエスを信じ悔い改めること)だと聖書は語るからです。
ことがお分かり頂けると思います。
しかし、それと同時に、特に先に挙げた二人のうちの後者(人を平気で騙し、傷つけ、自分の欲しいものは力づくでも手に入れてきた人)に自分の身を置いて考えると、
ことも感じて頂けると思います(比較:ルカの福音書7章36-50節)。
裁き主なる神の全知性(omniscience)
「世の終わり」には、
と聖書は語ります。
と思われる方がいらっしゃるかもしれません。
実際、この世における裁判では、必ずしも「正しい」裁きがなされるとは限りません。なぜなら、人間が知り得る知識には限界(偏り)がありますし、人間同士の思惑などによって、良くも悪くも真実が歪められる可能性があるからです。
しかしながら、キリスト教(聖書)の神は真実に基づいて正しく裁くお方です。その根拠の一つとしては、前節でみた神の「義」があります。
これは言うなれば、神自らが正しさの基準を与え、かつ常に正しいことを行うのですから、その神の裁きは必然的に正しいということになります。が、ここで
とイマイチ納得できない方のために、神の裁きが正しいとするもう一つの根拠として、神の「全知性(omniscience)」なるものを紹介します。
神の全知性とは、
という性質のこと。6
一言で言ってしまえば、
と言えます。事実、キリスト教(聖書)の神は私たち一人一人の髪の毛の数までも知っていると聖書は語ります(参照:ルカの福音書12章7節)。
ですから、
訳です。従って、キリスト教(聖書)の神の裁きが正しくないはずがないということになります。
裁き主なる神の神聖さ(holiness)
前々節で確認した「悪を罰せずにはいられない」および「悪を野放しにしてはおけない」という神の性質は、神の正しさの他にもう一つ別の性質とも関係があります。その性質とは神の「神聖さ(holiness)」。
キリスト教(聖書)神の神聖さには、大きく二つの側面があります。7
- キリスト教(聖書)の神は、他の全ての被造物とは異なるユニークな存在である
- キリスト教(聖書)の神は、この世の悪と相容れることがなく、悪によって汚されることもない存在である
上記の一つ目の意味合いにおいて、神聖さというのは神独自の固有の性質といえるものです。従って、神に捧げられたモノや場所は「聖」なるものと呼ばれます。
また、
と聖書は語ります(参照:レビ記19章2節) 。2
とは言われても、です。
とおっしゃる方は多いのではないでしょうか。でも、ご安心ください(?)。
なのです。8
律法や戒めの内容を学ぶことで、神が何を望まれ何を嫌われるかが分かります。それは即ち、上記に挙げた「神聖さ」の二つ目の側面(特に、この世の悪と相容れることがない神の性質)が具体的にどういうことを意味するのかを知ることにもつながります。
この意味において、聖書に記される「律法」を学ぶことは非常に大事なことです。また、ただ学ぶだけではなく実際に神の望むことを行うことも重要です。
神の望むことを行うことによって、神を知らない周りの人々も神が望んでいることが分かるようになりますし、神の「神聖さ」というものがどういうものであるかも分かるようになるからです(比較:申命記4章5-6節;マタイの福音書5章14-16節)。
ただし、ここで絶対に忘れてはならないこと。それは、
です。
神聖さの二つ目の側面に関連して、聖書の中でしばしば誤解されやすい表現があります。その表現とは神の「怒り(wrath)」。
実際、「神の怒り」と聞くと、
とショックを受ける方は多いかもしれません。
しかしながら、聖書は(旧約聖書、新約聖書全体を通して)神の怒りについてはっきりと記しています(参照:申命記9章7-8節;列王記第二22章13節;ローマ人への手紙1章18節;テサロニケ人への手紙第一1章10節)。9
それにしても、
というと、
からなのです。
ここで注意して頂きたいのは、キリスト教(聖書)の神は理由もなく突然怒るのではなく、身勝手な理由や理不尽な理由で怒るのでもないということ。あくまでも、この世に存在する「罪」や「悪」に対して怒りを発する神なのです。
従って、
対照的に、
この意味において、
だと言えます。裏を返せば、
と言っても過言ではありませんので注意が必要です。10
にしても、やはり、
もしくは
と思われる方は多いと思います。が、そう思ってしまうのは、「愛」に関する誤解が原因だと言えます。
私たちが通常イメージする「愛」というのは、恋人や配偶者、子供や親しい友人に対するもの。そして大抵の場合、愛するには何らかの理由が伴うと思います。例えば、「あの人が魅力的だから」とか「あの人とは気が合うから」とか「あの人といると楽しいから」などといった理由です。
また、私たちが考える「愛」の対象には、自分たちを嫌っている人や自分たちを知らない赤の他人というのは入ってこないと思います。
要するに、
と言えます(無条件の愛に近いのは親の子に対する愛情くらいでしょう)。
しかしながら、神が人を愛するとき、そこに「条件」はありません。「愛なる神」は無条件に人を愛さずにはいられないのです。たとえその人が神に対してどんな罪を犯していたとしても、また神をどれほど憎み嫌っているとしても、です。
ただし、
という訳です。11
言い方を変えると、
と言えます。そして、
のです(参考:ヨハネの福音書3章36節)。
まとめ
今回の記事でひとまず「キリスト教(聖書)の神はどんな神?」というテーマは終わりです。が、もちろん、これまでの三回の記事の内容でキリスト教(聖書)の神の全ての性質・側面について説明できた訳ではありません。
そもそものところ、キリスト教(聖書)の神について人間は完全には理解できません。それは創造主なる神と被造物なる人間との間にある超えられない壁の一つです。
しかしながら、神について全く分からないという訳でもありませんし、人間の分かる範囲で神を理解しようとすることは非常に意義ある大事なことです。
これまでの三回の記事では「造り主なる神」、「救い主なる神」、「裁き主なる神」という三つの側面にそれぞれ焦点をあてました。
これまでの三つの記事で学んだキリスト教(聖書)の神の性質をまとめると以下になります。
- 【超越性(transcendence)】
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物が存在する前から存在していた
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物とは全く異なる次元の存在である
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物が無くなってしまったとしても、それまでと変わらず存在し続ける
- 【全能性(omnipotence)】
- キリスト教(聖書)の神は、(神以外に)何も存在していない状態から天地万物を造り出した(無から有を造り出した)
- キリスト教(聖書)の神は、物理的に見えるものだけでなく天使や悪霊といった目に見えない霊的な存在をも造り出した
- キリスト教(聖書)の神は、時間と空間を造り出した(時間や空間に束縛されない)
- キリスト教(聖書)の神は、自分が成そうとすること(論理的にも自身の性質とも矛盾のないこと)は何でも実現することができる
- 【遍在性(omnipresence)】
- キリスト教(聖書)の神は、この世のありとあらゆる場所に同時に存在することができる
- 【全知性(omniscience)】
- キリスト教(聖書)の神は、未来のことも過去や現在と同じように知っている
- キリスト教(聖書)の神は、自分自身と天地万物について、実際に起こったことおよびこれから起こり得ることも含めて全てのことを常に把握している(知らないことは何もない)
- 【主権(sovereignty)】
- キリスト教(聖書)の神は、王として天地万物全て(霊的な存在も含む)を統べ治める権力をもっている
- 【摂理(providence)】
- キリスト教(聖書)の神は、人それぞれ(神に従う人や逆らう人、神を知らない人も含め全ての人)の意思を尊重しながらも、自身の計画を確実に成し遂げていく
- キリスト教(聖書)の神は、万物を支配または導きながら自分の成そうとすること(特に全世界の人々がイエスを信じれば救われるという道を用意すること)を必ず実現する
- 【内在性(immanence)】
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物を造った直後から積極的に被造物(特に人)に関わっている
- キリスト教(聖書)の神は、契約を結んだ人々と(婚姻関係にたとえられるほどの)非常に近しい関係をもつ
- キリスト教(聖書)の神は、契約に基づいて、被造物である人間の神となる(人間が神の民となる)
- キリスト教(聖書)の神は、契約に基づいて、人々のただ中に住み、いつも共にいてくれる
- 【義(righteousness)】
- キリスト教(聖書)の神は、人の罪(神が望むことをしなかったこと)を罰せずにはいられない(悪を野放しにはしておけない)
- キリスト教(聖書)の神は、正しさの基準を与え、自らも常に正しいことを行う
- キリスト教(聖書)の神は、私たちが行った全てのことを知っていて、自らが定めた善悪の基準によって、その行いが善いか悪いかを判断する(裁きは必ず正しい)
- 【神聖さ(holiness)】
- キリスト教(聖書)の神は、他の全ての被造物とは異なるユニークな存在である
- キリスト教(聖書)の神は、この世の悪と相容れることがなく、悪によって汚されることもない存在である
- キリスト教(聖書)の神は、その神聖さ(この世の悪と相容れることがなく、悪によって汚されることもない存在)の故に「罪」および「悪」に対しては怒りを発せざるを得ない
- キリスト教(聖書)の神は、契約(神の恵み)によって「神の民」とされた人々(救われるに値することは何もしていない人々)に対して、自分と同じように「聖なる者」となるように望んでいる
- 【愛(love)】
- キリスト教(聖書)の神は、人が神の望まないことをしてしまった結果、人との関係が壊れたままとなり、人が死んでいくのを良しとはされなかった(罪を犯した人間を見捨てておけなかった)
- キリスト教(聖書)の神は、怒りが向けられて当然な存在(神の望まないことをした人)ですら無条件で愛している
- 【恵み深さ(grace)】
- キリスト教(聖書)の神は、罪の大小を問わず、イエスを信じて神のもとに立ち返った(悔い改めた)人は誰でも赦す
- 【憐み深さ(mercy)】
- キリスト教(聖書)の神は、一人でも多くの人が神のもとに立ち返ってくれることを待ち望んでいる
- キリスト教(聖書)の神は、罪人に対して非常に憐み深いお方である(イエスを信じ悔い改めれば、どんな罪でも赦される)
なお、上記の性質は、これまでの記事に出て来た順番通りではなく、関連の深いものを出来るだけ近くに並べてあります(「全能性」と「全知性」、「主権」と「摂理」など)。
上記のキリスト教(聖書)の神の性質を見比べると非常に不思議なことが分かります。それは、
ということ。例えば、一見すると真逆のように思える性質として、
- 超越性と内在性
- 義と愛
などがあります。
砕けた表現を使うと、
と言えると思います。
そして、
であり、
であると言えます。2
このように、一見すると真逆に思えるような性質も含めて、先述した性質(および私が紹介しきれていない神の性質)は全て等しくキリスト教(聖書)の神の特徴を正しく表したものです。12
従って、
です。
なお、キリスト教(聖書)の神についてもっと詳しく学びたい方は、下記の記事を参照ください。
参考文献および注釈
- Bray, G. L. “GOD.” Edited by T. D. Alexander and B. S. Rosner. New Dictionary of Biblical Theology. Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000.
- Carson, D. A. The Difficult Doctrine of the Love of God. Wheaton, Ill.: Crossway, 1999.
- Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
- Fee, Gordon D., and Douglas K. Stuart. How to Read the Bible Book by Book: A Guided Tour. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2002.
- Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
- Oswalt, J. N. “GOD.” Edited by T. Desmond Alexander and David W. Baker. Dictionary of the Old Testament: Pentateuch. Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003.
- 詳細は下記を参照。Gordon D. Fee and Douglas K. Stuart, How to Read the Bible Book by Book: A Guided Tour (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2002), 14–20.
- イエスの十字架刑について興味のある方は、下記の記事を参照ください。「イエス・キリストはなぜ死んだのか?①―死刑(十字架刑)の方法とその死因―」、「イエス・キリストはなぜ死んだのか?②―十字架の政治的・ユダヤ教的理由―」、「イエス・キリストはなぜ死んだのか?③―十字架のキリスト教的理由・意味―」
- 詳細は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 204–205.
- この世における苦しみや悲しみ、不平等や不正と神の正義・正しさとの関係についての議論は、例えば下記を参照。G. L. Bray, “GOD,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 518. 興味のある方は、下記の記事もご覧ください。全知全能で愛なる神がなぜ苦しみや悪を許す?苦しみの原因と解決は?
- 詳しい議論は下記を参照。ibid., 518–519.
- 詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 190–193.
- 詳細は下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 256–258.
- 詳細は下記を参照。J. N. Oswalt, “GOD,” ed. T. Desmond Alexander and David W. Baker, Dictionary of the Old Testament: Pentateuch (Downers Grove, Ill.: InterVarsity, 2003), 849–850.
- 聖書にある程度馴染みのある方の中には、旧約聖書の神は「怖い」「怒り」の神、新約聖書の神は「優しい」「愛なる」神というイメージを持っている方がいらっしゃるかもしれません。しかしながら、愛と恵みと憐れみに満ちたイエス自身が「地獄」について何度も言及していますし、ヨハネの黙示録16章などでは「神の怒り」の凄まじさが描かれています。このため、新約聖書の神が優しく愛に満ちた神と考えるのは偏った見方だと言わざるを得ないと思います。詳しい説明は下記を参照。D. A. Carson, The Difficult Doctrine of the Love of God (Wheaton, Ill.: Crossway, 1999), 69–70.
- 神の神聖さと怒りの関係に関する詳細は下記を参照。ibid., 66–68.
- 詳細な説明は下記を参照。ibid., 68–69.
- キリスト教(聖書)の神にとって、ある特定の性質が他の性質よりも重要だとは言えませんし、異なる性質ごとに異なる神がいる訳でもありません。このこともまたキリスト教(聖書)の神の性質の一つで、神の「統一性(unity)」と呼びます。詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 177–181.