礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年11月27日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「律法と救いとの関係」
- 聖書個所:ガラテヤの信徒への手紙3章19-25節1
導入
今日からアドベント(待降節)が始まります。
アドベント(待降節)というのは、
です。その割には、今日の聖書個所にイエス様の誕生にまつわる話が出てきていませんから、不思議に思われた方がいらっしゃると思います。
アドベントの始まりの説教個所として今日の個所を選んだのは、ここ最近のTokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)の説教で出エジプト記の「十戒」について詳しく見てきたことが関連しています。
というのも、十戒や律法の話ばかりだと、どうしても神様の正義や裁きといったものが強調されてしまいがちになります。
またそのメッセージを受け取る私たちも「-すべきでない」「-すべきだ」といった義務感ばかりが先立ち、
になってしまいます。そのため、今日の聖書個所を通して今一度、
を明らかにしておきたいと思った訳です。そして、律法と救いとの関係を考える中で、改めて
ことができればと思います。
信仰による救い
今日の聖書個所となるガラテヤの信徒への手紙は使徒パウロがガラテヤという地方(現在のトルコの中央部)に住むクリスチャンたちに宛てて書いたものです。
この手紙で特に問題となっているのは
です(ガラテヤの信徒への手紙1章6-9, 11-12節)。
実際、このときガラテヤに住んでいた人たちは「律法を守ることで救われる(義と認められる)」という教えに惑わされていました(参考:1章6-7節; 2章16節; 3章1-5節; 5章2-6節; 6章12-15節)。
そんな人々に対してパウロは手紙の中で
だと説明している訳です。
特にパウロは、この
神様はアブラハムおよび彼の子孫によって、全ての人々を祝福すると約束されましたが(創世記12章3節; 22章18節)、その約束は究極的にイエス様によって実現されるとパウロは語ります(参照:ガラテヤの信徒への手紙3章10-14, 16節)。
そして、この
とパウロは続けます(3章17節)。
という訳です。
キリストに導く養育係
それでは、
パウロによると、律法は救いとは直接関係のないものではあるけれど、
に与えられたものだと言えます(参照:ガラテヤの信徒への手紙3章19節)。
実際、
しかも、
であることにも気づかされていきます(参照:ローマの信徒への手紙3章20節;比較:ローマの信徒への手紙4章15節; 5章13, 20節; 7章7-8節)。
けれども、それは
だとパウロは語ります(ガラテヤの信徒への手紙3章22-23節)。言うなれば、
だと言えます。その意味で律法は私たちを「キリストに導く養育係」(ガラテヤの信徒への手紙3章24節)となったとパウロは言っています。
救いと直接的な関係はないけれども、
と言えます。
義と認められた後の生活
しかしながら、
事実、手紙の後半部分でパウロは律法を破棄・無視したり、軽視したりするどころか、律法を土台としながら救われた(義と認められた)後の生き方の指針を与えています(参照:ガラテヤの信徒への手紙5章13-14節)。
ものだと言えます。その意味で
のような役割を持っていると言えるかもしれません。
結論
律法をどれだけ守った・守らなかったかで救われるか(神様の前に義と認められるか)どうかが決まる訳ではないからです。
しかしながら、
律法は人々に罪の自覚をもたらし、自らの力では律法を守り切ることが出来ず、イエス様を信じる他に救われる道はないという思いへと導くからです。
さらに
ものです。その意味で、律法はもう既に信仰によって義と認められている私たちにこそ必要なものだと言えます。
世の中はクリスマスの季節を迎えています。
でも残念ながら、日本では教会以外の場所でクリスマスにイエス様を見かけることはほぼありません。
けれども、
です。
だとイエス様はおっしゃいました(参照:マタイによる福音書5章17節)。事実、
また、信仰によって神様の前に義と認められた
だからパウロはガラテヤの信徒への手紙5章16節で
ように勧めています。そうすることで、
と言うのです(5章22節)。
ここで
となってしまうと危険です。
からです。むしろ、どれだけ努力しても全く変わらない自分をみて
と自暴自棄に陥ってしまうことになります。もちろん、
けれども、
繰り返しますが、
また、
律法をたくさん守れば、神様がたくさん愛してくれる訳でもありません。
反対に、律法を守らなければ、神様が愛してくれなくなる訳でもありません。
牧師の言うことや聖書に書いてあることをたくさん実践すれば、神様に認められて、自分の願い事がかなえられたり、何か特別な祝福を与えられたりする訳でもありません。
私たちが聖書の中の勧めや戒めに従うのは、自分の救いや利益のためではなく、もう既に神様の恵みによって返しきれないほどの祝福を受けているからです。
それは日本的なたとえで言えば、個人的にすごくお世話になった人がいて、その人に対する恩義に報いるため、またその人の面子をつぶさないようにするため、その人から頼まれたことを忠実に行おうとすることに似ているかもしれません。
しかも、その人はただあなたに頼みごとを任せっ放しにするのではなく、あなたがその頼みごとを遂行するために必要なものを全て与え、絶えずあなたのそばにいてあなたを励まし、力づけてくれる訳です。
さらにいえば、その人はたとえあなたがその頼みごとを完璧・完全に成し遂げることができないとしても、それまでと変わらずあなたを愛し、受け入れ、何度でもチャンスを与えてくれる懐の深いお方でもあります。
神様の恵みによって、私たちにもう既に与えられている返しきれないほどの神様の祝福。その最たるものがイエス・キリストです。その
そして、
参考文献および注釈
- McKnight, Scot. Galatians. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1995.
- Schreiner, Thomas R. Galatians. Edited by Clinton E. Arnold. The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Academic, 2010.