礼拝説教の要旨です。
- 日時:2024年4月7日(日)
- 場所:さいたま国際キリスト教会
- 説教タイトル・テーマ:「復活の喜び、そして希望」
- 聖書個所:ルカによる福音書24章36-53節1
導入
今日はさいたま国際キリスト教会(SIC)にて説教する機会を与えてくださり、心より感謝しております。
実は、私はこちらの教会で随分前に何度か説教をさせて頂いたことがあります。
そのときからこれまでの間に本当に色々なことがありました。
SICの皆様もこれまでに様々なことを経験されてきたことと思います。
今日の聖書個所に出て来るイエス様の弟子たちに目を向けると、彼らは彼らがそれまで信じて付き従っていた
彼らにとってイエス様はローマ帝国を討ち滅ぼしイスラエルの王国を建国する政治的指導者という意味の「メシア」だったからです。
このため、イエス様がローマ帝国によって殺されてしまったとき、
そのような状況にある弟子たちのところに復活したイエス様が現れたというのが今日のお話になります。
今日はこの話を通して、
を今一度、思い起こしたいと思います。
復活の肉体
まず今日の個所で注目すべきこと、また作者のルカが強調していることの一つは
ということです。
ルカによる福音書24章37節には復活したイエス様の姿を見ても直ぐには信じられなかった弟子たちの様子が記されています。
そんな弟子たちに対して、
けれども、イエス様の手足を見て、触ってみてもなお、彼らはまだ信じきることができずに不思議がっていたとルカは41節で記しています。
すると
現代の私たちにとってもそうですが、当時の人々にとっても
ことが分かります。
復活の預言
復活したイエス様を目の当たりにしてもなかなか信じることができなかった弟子たちに対して、次に
しようとされます(ルカによる福音書24章45-47節)。
特に45節には
とあります。このことから、
であることが分かります。
復活の喜び
この出来事の後、
とルカによる福音書24章50-51節に記されています。
このときの弟子たちはイエス様が復活されたことに対して全く疑問をもっていませんでした。
むしろ、
と聖書は記します(52-53節)。
復活されたイエス様に出会う前まで、弟子たちは皆これからどうして良いか分からず途方に暮れていました。
それまでイエス様に抱いていた希望はもちろん、イエス様に対する信仰さえも失いかけていました。
しかしながら、復活したイエス様に出会い、その手足に触れ、心開かれてイエス様の言葉の意味を理解した彼らの心は喜びと希望に満ち溢れていました。
それは、
から。そして、それによって、
からだと言えます。
結論
当時のユダヤ人たちにとって、死んだ人が肉体をもってよみがえるということはもちろん、メシアが殺されてしまうというのは到底、信じられることではありませんでした。
しかし
そして、その預言の言葉の通り、
です。その
ようになります。
ルカによる福音書はここで終わりますが、この話にはまだ続きがあります。
それは
です。
ルカによる福音書24章47節でイエス様は、
とおっしゃいました(参考:ヨエル書3章1-5節[新改訳では2章28-32節];イザヤ書42章6節; 49章6節;比較:ルカによる福音書2章32節;使徒言行録2章17–21, 38–39節; 13章47節)。
この預言の言葉は
SICに集う皆さんも含め
しています。
ここで注意していただきたいことは、
ということです。
事実、イエス様はマタイによる福音書5章16節で弟子たちに
ことを勧めています。
ここでイエス様の語る「立派な行い」とは例えば、マタイによる福音書5-7章に記されているように、
右の頬を打たれたら左の頬を向けること(マタイによる福音書5章39節)、
敵を愛し迫害する者のために祈ること(マタイによる福音書5章44節)
などを含みます。そのように
とイエス様はおっしゃっています。
その理由は恐らく、
からではないかと思います。
実際問題、私たち人間の力だけで神様の望まれる立派な行いをすることは不可能と言っても過言ではありません。
しかしながら、
その
そうした
のだと思います。このように
ことができる訳です。
なお、ここで絶対に忘れてはならないことが一つあります。それは、
ということです。
そして、
訳です。
ものです(エフェソの信徒への手紙2章8-10節)。ですから、
もし皆さんの中で神様の働き・臨在を感じられず、不安や恐れを覚えている方がいらっしゃるのであれば、今一度、
イエス様を信じる前と後で大きく変わったことはないでしょうか。
昔はそれほど気にならなかったことに対して、今では罪悪感を覚えるようになったということはないでしょうか。
もしかしたら、その変化はとても小さな変化かもしれません。
長い年月が経つにつれ、その変化すらも忘れてしまうかもしれません。
けれども、時には
だと思います。そして、
反対に、
必要があるかもしれません。
参考文献および注釈
- Bock, Darrell L. Luke. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
- ———. Luke 9:51-24:53. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker Bk House, 1996.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.