「敵を愛しなさい」:2025年6月1日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2025年6月1日(日)
  • 場所:さいたま国際キリスト教会
  • 説教タイトル・テーマ:「敵を愛しなさい」
  • 聖書個所:ルカによる福音書6章27-36節1
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

導入

今日の聖書個所はルカによる福音書6章20-49節に記されているイエス様の教えの中の一部となっています。

このルカによる福音書6章20-49節の教えに関して、注目すべきことが二つあります。

一つ目は、ルカによる福音書6章20-49節の教えは弟子たちに向けられた説教だということです(ルカによる福音書6章20節)。

二つ目は、これらの弟子たちはルカによる福音書6章20-49節の教えを聞く前にイエス様の癒しや悪霊の追い出し奇跡的な御業を体験しているということです(ルカによる福音書6章17-18節)。

言うなれば、ルカによる福音書6章20-49節の教えは、

イエス様を救い主と信じ、神様の愛と恵みと憐れみによって救われたイエス様の弟子(クリスチャン)たちが神様に喜ばれる生き方をするためにはどうすればよいかを教えてくれる

ものと言えます。

今日は特にルカによる福音書6章20-49節の教えの内容の一部に焦点を当て、

イエス様の弟子(クリスチャン)としてどのように生きることを神様・イエス様が望んでおられるか?

を考えたいと思います。

敵を愛する

イエス様は神様の愛と恵みと憐れみを既に体験した弟子たちに

敵を愛しなさい

とおっしゃいます(ルカによる福音書6章27節)。

「敵を愛する」というのは、具体的に言うと、例えば

自分を憎む人に親切にする、

自分を呪う人を祝福する、

自分を侮辱する人のために祈る

ことです(27-28節)。

ここでイエス様の語る「敵」というのは、今日の個所の少し前のルカによる福音書6章22-23節を読むと、主に

イエス様を信じる信仰の故に敵対する人たち

と言えます。しかしながら、27節の「敵」を、イエス様を信じる信仰の故に敵対する人たちに限定せず、

何らかの理由で私たちを憎んだり、呪ったり、侮辱したりする人たち

と解釈することもできると思います。いずれにしても、

自分に敵対する人に親切にし、祝福があるように祈る

ことを神様は望んでおられると言えます。

どんなことがあっても愛する

さらに、ルカによる福音書6章29-30節でイエス様は、

たとえ敵対する人から侮辱されたとしても仕返ししたりしないように

また、

たとえ物を奪われたとしても取り戻そうとしたりしないように

勧めています。そのために時には

自らの持っている権利や財産を手放すことがあったとしても

です。

どんなことがあっても愛する

ことを神様・イエス様は望んでおられると言えます。

愛されたいように愛する

ルカによる福音書6章31節は黄金律とも呼ばれる言葉です。

ここでイエス様は、これまでの27-30節までに勧めてきた善い行いの動機付けとして、

自分がそれをされたらどう思うかを考えなさい。そして、自分がされて嬉しいと思うことは、相手にもしなさい

と勧めています。

自分と敵対関係にある人に愛されて嬉しいと思うなら、愛されたいようにその人を愛しなさい

とイエス様はおっしゃっています。

神のように愛する

ルカによる福音書6章32-35節でイエス様は更に、

敵を愛すること、人に良くすること、返してもらうことを当てにせずに貸す(与える)こと

を勧めています。また、

敵を愛し、人に良くし、何も当てにしないで貸すと、沢山の報いがあり、父なる神様の子供となる。なぜなら、神様は恩を知らない人や悪人、皆に情け深いから

とイエス様はおっしゃいます。そして最後に、

神様が慈しみ深いように慈しみ深い者となりなさい

とイエス様は勧めています(35-36節)。

神様は人を分け隔てすることなく、この世の全ての人に対して情け深く、慈しみ深いお方です。

神様は神様に忠実な人や神様を愛する人だけでなく、神様に敵対する人や神様を憎む人、神様を呪ったり侮辱したりする人も愛しておられます。

たとえ彼らが恩知らずであったり、悪人であったりしたとしても、どんなことがあったとしても、神様の愛が変わることはありません。

ですから、私たちが神様のように自分に敵対する人や自分を憎む人、自分を呪ったり侮辱したりする人をどんなことがあっても愛するとき、

周りの人は私たちの中に神様・イエス様の姿を見ることができます。
私たちを神様の子供であると認めることができます。

それは

何物にも代えがたい神様からの祝福であり報い

です。

結論

敵を愛しなさい

とイエス様はおっしゃいます。

しかも、敵を愛するために、

時には自らの持っている権利や財産を手放すことがあったとしても、

どんなことがあっても敵を愛しなさい

とイエス様はおっしゃいます。

さらに、

敵に愛されて嬉しいと思うなら、敵に愛されたいと思うなら、敵を愛しなさい

とイエス様はおっしゃいます。

私たちが神様のように敵を愛するとき、私たちの周りの人は私たちの中に神様・イエス様の姿を見る

ことができます。

そして、

私たちを神様の子供であると認める

ようになります。

それは

何ものにも代えがたい神様からの祝福であり報い

だとイエス様はおっしゃいます。

・・・と言われても、

です。

頭では分かっていても、実際問題、

敵を愛することは簡単なことではありません。

結局のところ、

私たち人間が神様のように敵を愛することは到底、不可能

です。でもここで神様は私たちに

「敵を愛さないと救われない」と言っている訳ではありません。

むしろ神様は、冒頭でみたように、

もう既に信仰によって、神様の恵みによって救われた私たちクリスチャンに対して、敵を愛しなさいとおっしゃっておられる

訳です。

私たちが救われるのは行いによってではなく、あくまでもイエス様を信じる信仰によって

です。

神様の望まれる生き方ができない私たちは皆、永遠の滅びという罰を受けてしかるべき存在でした。

にもかかわらず、

愛と恵みと憐れみに富む神様は、自らの罪の罰で滅ぼうとしている私たちを見捨てることができませんでした。

そして、

子なる神であるイエス様自らが、人の姿を取ってこの世に来られ、私たちの受けるべき罪の罰をその身に背負って、十字架で死んでくださいました。

その

イエス様の行いおかげで、私たちはイエス様を信じる信仰によって、永遠の滅びから救われる

ことができるようになりました。

救われるに値しない行いをした私たちが、イエス様の行いのおかげで、信仰によって救われる訳です。

神様の恵み

以外の何物でもありません。この

神様の愛と恵みと憐れみを体験した私たちクリスチャンに対して神様は、神様が私たちを愛してくださっているように、私たちの周りの人を敵も含めて皆、愛しなさい

とおっしゃっています。

たとえその人があなたに敵対しているとしても、

その人を愛しなさいと神様はおっしゃっています。

たとえその人があなたを憎んでいるとしても、

あなたを呪ったり侮辱したりすることがあるとしても、

どんなことがあっても、

神様があなたを愛してくださっているように、その人を愛しなさい

と神様はおっしゃっています。

と言われてもやはり、

無理です、神様。私にあの人は愛せません

と思われる方がいらっしゃると思います。

そんな方は今一度、

イエス様の十字架を見上げてください。

イエス様は、

あなたが神様に敵対していたとき、

神様のことを憎んでいたとき、

神様のことを呪ったり侮辱したりしていたとき、

あなたのために十字架にかかって死んでくださいました(ローマの信徒への手紙5章6-8節)。

イエス様は、私たちがまだ不敬虔な者だったころ、即ち、まだ神様を信じていなかったころ、まだ罪人であったとき、私たちのために十字架で死んでくださいました。
神様は「敵」であったあなたを滅びから救うために、あなたの罪の罰をその身に背負って、十字架にかかって死んでくださいました。

それほどまでに

神様はあなたのことを愛しておられる

のです。

自分の敵を愛することなんてできない

と思うとき、

敵であったあなたを愛してくださった神様の愛を思い起こしてください。
あなたのことを神様がどれほど愛していらっしゃるかに思いを馳せてみてください。

そして、

神様があなたを愛してくださっているように、あなたの周りの人を愛することができるように祈り求めてみてください。

そうすればきっと、

あなたの内に住まわれる聖霊なる神があなたに必要な知恵と力を与え、あなたを助け導いてくださいます。
イエス様の十字架に示された神様の愛を覚え、聖霊の助けにすがりつつ、神様が愛してくださっているように、周りの人々を愛していくことができますように。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告