これまで何回かにわたって、キリスト教の中核を成す神、イエス・キリスト、聖霊について紹介してきました。
しかし、上記の記事の中でずっと後回しにしていたキリスト教の中心的な教え・教理があります。
その名も「三位一体説」。
三位一体説というのは、端的に言うと
父、子、聖霊という三つの異なる位格(いかく)をもっていて、
それら三つはそれぞれ100%神である
という教えです。 が、よくよく読んでみると(読まなくてもかもですが)、
といった感想を持たれる方がほとんどだと思います。
という訳で、今回は「キリスト教(聖書)の三位一体説」について説明しようと思います。
しかしながら、初めに断っておくと、この「三位一体説」というのはキリスト教の「神秘(mystery)」の一つと言われています。1
ですので、非常に残念ながら、私たち人間の理性や論理だけで納得できる類のものではありません。
このため、最終的には
と受け入れるしかないものと言えます。
とはいえ、論理的に説明できないものでもありませんし(納得・理解できるかは別として)、ただ単純に受け入れるだけでなく、理性的・論理的に理解しようとすることはとても大事なことだと思っています(神が人間に理性・論理性を与えてくれているので)。
と、かなり言い訳がましくなった前置きはここまでにして、今回の話の流れ(目次)は以下の通り。
三位一体説の成り立ち
さて、この「三位一体説」、キリスト教に詳しくない人でも一度は聞いたことがあるほどに有名だと思います。が、実は、聖書の中にはっきりと定義されている訳ではありません。2
むしろ、
と言える代物。
その原型が完成したのが西暦381年の「コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)公会議(the Council of Constantinople)」ですので、イエスが死んでから約350年が経っています。3
ここまで聞くと、恐らく
と思われると思います。
確かに、聖書にはっきりと記されていないという意味では、後世の人たちが表現方法(新しい言葉・用語)を「作り出した」と言えます。
しかしながら、あくまでも聖書に記されていることを整理して、別の言葉・用語を使って言い表している訳ですので、
です。
別の言い方をすれば、
のです。でも、
が気になるところですが、それは聖書の語る神について、紀元2-4世紀にかけて色々な考え方・解釈が出てきたからです。
その中には、聖書が教えている神とは異なる性質をもった神を説く人たちも出てきました。
が生じてきた訳です。4
例えば、2世紀の神学者でテルトゥリアヌス(テルトリアヌス、Tertullian)という人がいます。彼は、人類の歴史を以下の三つの時代に分けて考えました。
- 旧約聖書の時代
- イエスの時代
- イエスが死んで復活して、イエスを信じる者に聖霊が下るようになった時代
そして、それぞれの時代は「父なる神」、「子なる神」、「聖霊なる神」に属していると考えました。5
しかし、この考え方だと一人の神が時代に応じて姿を変えているだけで、三位一体が教えるように「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」という三つの位格が同時に存在している訳ではありません。
神が一人であることを強調するテルトゥリアヌスのような考え方は専門用語で「様態論(modalism)」と呼ばれます。この考え方の特徴は、神はあくまで一人で、父、子、聖霊というのは、同じ神が異なる様態(mode)を取って現れただけだと考えます。6
様態論を説いた代表的な人物は、プラクセアス(Praxeas;2世紀)、スミルナのノエトス(Noetus of Smyrna;2世紀後半)、サベリウス(Sabellius;3世紀)など。様態論の考え方だと、神、イエス、聖霊が同時に表れる聖書個所が上手く説明できません(例:マタイの福音書3章16-17節) 。7
神はあくまでも一人であるとするばかりに、イエスは神ではなく普通の人だと考える人たちもいました。皮なめしのテオドトス(Theodotus;2世紀)はその一人。
テオドトスは、普通の人イエスが洗礼を受けたときに聖霊(神の霊)がイエスの上に降ったため、イエスは神の業を行えるようになったと説きました。聖霊(神の霊)の力のお陰で、普通の人であるイエスが様々な奇跡を行うことができるようになったという訳です。8
このように、普通の人(被造物)イエスが神の力を受けて、神の業を成す・神の性質をもつ(神の養子とされる)という考え方を専門用語で「勢力論的単一神論(dynamic monarchianism)」または「養子論(adaptionism)」と言います。9
この考え方はもちろん、「子なる神」であるイエスを否定していますので三位一体説とは相容れません。
イエスは普通の人間ではないにしても、神とは等しくないとする立場の人たちもいました。代表的な人物はオリゲネス(Origenes、Origen;3世紀)とアリウス(Arius;3-4世紀)。
オリゲネスは、御子は神のかたち(image)であり、聖霊は御子のかたちであるという意味において、神と御子と聖霊の間には上下関係があるとしました(神が存在しなければ御子も聖霊も存在しない)。このような考え方は従属説(subordinationism)と呼ばれます。10
アリウスは、御子と聖霊は神と同じ性質はもっておらず、ただ神と似た性質をもっているだけだと主張しました。神によって(天地万物の創造前に)御子も聖霊も創造されたと考えたからです。11
という声が聞こえてきますが、残念ながら、どれもホンモノではありません。
ただ、
ことが分かると思います。
このような混乱に(一つの)終止符を打ったのが、325年に開かれた「ニカイア公会議(the Council of Nicene)」と381年の「コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)公会議(the Council of Constantinople)」です。
ニカイア公会議で定められた「ニカイア信条(Nicene Creed)」によって、イエスが被造物ではなく神と等しい性質をもつことが宣言されます。12
コンスタンティノープル公会議では、ニカイア信条の内容を再確認した上で、聖霊が神であることも宣言されます。13
このような歴史的背景の上に三位一体説が確立されていったのです。
三位一体説の検証(聖書的根拠)
前節でみたように、2-4世紀の人たちは「父なる神、神の子イエス、聖霊の関係」について様々な考え方・解釈をもっていました。しかし、前節で紹介したものはいずれもキリスト教(聖書)の教えではないとされた訳です。
では、
を以下で考えていきます。が、その前に、三位一体説をもう一度記しておきます。
父、子、聖霊という三つの異なる位格をもっていて、
それら三つはそれぞれ100%神である
それでは、まずは「神はただ一人かどうか」について。
唯一まことの神
聖書は至る所で「神はただ一人」だと記しています。例えば、旧約聖書の申命記6章4節には次のようにあります。
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。【申命記6章4節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉325頁14
新約聖書においてもキリスト教徒たちが「神は唯一」であることを信じていると記しています。
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。【ヤコブの手紙2章19節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉460頁
ここで面白い(?)のは、人間だけでなく悪霊たちも「神は唯一」だと信じていると書かれていること。
聖書において、
だと言えます。
三つの異なる位格
三位一体説の厄介なところ(理解が難しいところ)は、「神は唯一」なのにもかかわらず、父、子、聖霊という三つの異なる位格(いかく)が存在するというところでしょう。
でも、これ以上話を進める前に、耳慣れない「位格」という言葉の意味を説明しておく必要があると思います。
「位格 (いかく)」という言葉は元々のラテン語ではpersona(ペルソナ)、英語だとpersonと訳されます。
ペルソナというのは本来は演劇用語で、一人の人が複数の役を演じる時、その役者は仮面をかぶり、役柄(persona)を変えるごとに別の仮面にかぶり変えていたようです。15
ですから、「位格」というのは「ある人格・個性・役割をもった主体」と考えると何となくイメージが湧くのではないかと思います。
つまり、三位一体説によると、
と言うことができます。
それでは、
その違いは以下の二つに大きく表れてきます。16
- 父、子、聖霊の三者が天地万物とそれぞれどのように関わるか
- 父、子、聖霊の三者がお互いにどのように関わるか
天地万物との関係について、父なる神は言葉によって天地万物を創造したと聖書は語ります(創世記1章)。
はじめに神が天と地を創造された。…神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。【創世記1章1、3節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉1頁
と同時に、子なる神が(ある意味、神の言葉・命令に従って)天地万物を創造し、天地万物は子なる神によって成り立っていると聖書は記します。
天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。【コロサイ人への手紙1章16-17節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉402頁
また、天地万物と聖霊(神の霊)なる神の関係については、以下のように記されている箇所があります。
もし、神がご自分だけに心を留め、
その霊と息をご自分に集められたら、
すべての肉なるものはともに息絶え、
人は土のちりに帰る。
【ヨブ記34章14-15節】出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉920頁
ここでは、もし神が自分の霊(聖霊)と息をこの世から取り去ってしまったら、命あるものは全て息絶えてしまうといっています。裏を返せば、聖霊(と神の息)のおかげで、この世に「命」が存在し、保たれていると言えます(比較:詩篇33篇6節;104篇30節)。
天地万物の中でも人間は神に従わなかった(罪を犯した)ため、滅びゆく定めにありました。
父なる神は人間を滅びから救う計画を立て、その計画を成し遂げるため子なる神イエスを地上に遣わしました(ヨハネの福音書3章16節)。
子なる神は父なる神の計画に従順に従い、人類の罪の罰を一身に背負って十字架刑にかかり、死んで葬られた後、よみがえり天に昇りました(ピリピ人への手紙2章6-9節)。
聖霊なる神は父なる神と子なる神に遣わされ、子なる神イエスを信じて救われた人たちのうちに住み、彼らを助け導きます(コリント人への手紙第一6章19節;ヨハネの福音書14章16、26節;16章7-15節など)。
以上のような父、子、聖霊の三者と天地万物の関わり方から、父、子、聖霊の三者間の関係について、次のように言えるでしょう。17
子なる神は父なる神の指示に従い、
聖霊なる神は父なる神と子なる神の指示に従う
別の言い方をすれば、
とも言えます。18
なお、この(天地万物に対する)働き・役割における従属関係は、一時的なものではなく永遠に存在するものだと聖書は語ります(参照:コリント人への手紙第一15章28節)。19
ただし、繰り返しますが、(天地万物に対する)働き・役割においては従属関係があったとしても、神の本質(特質、性質)において三者は完全に等しい存在です(父、子、聖霊それぞれが100%神といえる)。
これは、人間的に言えば、人としての尊厳(本質)は同じであっても、会社内で役職に応じた上下関係(従属関係!?)があるのに似ていると言えるかもしれません。
各位格の神性
最後に、父、子、聖霊の三者は神の本質において等しいこと、つまりは父、子、聖霊の三者はそれぞれ100%完全に神であることをみていきます。
父なる神については、聖書的な「神」の定義を与える存在と言ってもよいと思いますので、特に問題はないと思います。
ちなみに、実際にキリスト教(聖書)の神がどんな性質をもっているかに興味のある方は、下記のブログを参照してください。
ここでは「キリスト教(聖書)の神はどんな神?③―裁き主なる神の性質―」の「まとめ」に記した内容を以下に再掲しておきます(【注意】以下に挙げるものが神のもつ性質の全てではありません)。
- 【超越性(transcendence)】
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物が存在する前から存在していた
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物とは全く異なる次元の存在である
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物が無くなってしまったとしても、それまでと変わらず存在し続ける
- 【全能性(omnipotence)】
- キリスト教(聖書)の神は、(神以外に)何も存在していない状態から天地万物を造り出した(無から有を造り出した)
- キリスト教(聖書)の神は、物理的に見えるものだけでなく天使や悪霊といった目に見えない霊的な存在をも造り出した
- キリスト教(聖書)の神は、時間と空間を造り出した(時間や空間に束縛されない)
- キリスト教(聖書)の神は、自分が成そうとすること(論理的にも自身の性質とも矛盾のないこと)は何でも実現することができる
- 【遍在性(omnipresence)】
- キリスト教(聖書)の神は、この世のありとあらゆる場所に同時に存在することができる
- 【全知性(omniscience)】
- キリスト教(聖書)の神は、未来のことも過去や現在と同じように知っている
- キリスト教(聖書)の神は、自分自身と天地万物について、実際に起こったことおよびこれから起こり得ることも含めて全てのことを常に把握している(知らないことは何もない)
- 【主権(sovereignty)】
- キリスト教(聖書)の神は、王として天地万物全て(霊的な存在も含む)を統べ治める権力をもっている
- 【摂理(providence)】
- キリスト教(聖書)の神は、人それぞれ(神に従う人や逆らう人、神を知らない人も含め全ての人)の意思を尊重しながらも、自身の計画を確実に成し遂げていく
- キリスト教(聖書)の神は、万物を支配または導きながら自分の成そうとすること(特に全世界の人々がイエスを信じれば救われるという道を用意すること)を必ず実現する
- 【内在性(immanence)】
- キリスト教(聖書)の神は、天地万物を造った直後から積極的に被造物(特に人)に関わっている
- キリスト教(聖書)の神は、契約を結んだ人々と(婚姻関係にたとえられるほどの)非常に近しい関係をもつ
- キリスト教(聖書)の神は、契約に基づいて、被造物である人間の神となる(人間が神の民となる)
- キリスト教(聖書)の神は、契約に基づいて、人々のただ中に住み、いつも共にいてくれる
- 【義(righteousness)】
- キリスト教(聖書)の神は、人の罪(神が望むことをしなかったこと)を罰せずにはいられない(悪を野放しにはしておけない)
- キリスト教(聖書)の神は、正しさの基準を与え、自らも常に正しいことを行う
- キリスト教(聖書)の神は、私たちが行った全てのことを知っていて、自らが定めた善悪の基準によって、その行いが善いか悪いかを判断する(裁きは必ず正しい)
- 【神聖さ(holiness)】
- キリスト教(聖書)の神は、他の全ての被造物とは異なるユニークな存在である
- キリスト教(聖書)の神は、この世の悪と相容れることがなく、悪によって汚されることもない存在である
- キリスト教(聖書)の神は、その神聖さ(この世の悪と相容れることがなく、悪によって汚されることもない存在)の故に「罪」および「悪」に対しては怒りを発せざるを得ない
- キリスト教(聖書)の神は、契約(神の恵み)によって「神の民」とされた人々(救われるに値することは何もしていない人々)に対して、自分と同じように「聖なる者」となるように望んでいる
- 【愛(love)】
- キリスト教(聖書)の神は、人が神の望まないことをしてしまった結果、人との関係が壊れたままとなり、人が死んでいくのを良しとはされなかった(罪を犯した人間を見捨てておけなかった)
- キリスト教(聖書)の神は、怒りが向けられて当然な存在(神の望まないことをした人)ですら無条件で愛している
- 【恵み深さ(grace)】
- キリスト教(聖書)の神は、罪の大小を問わず、イエスを信じて神のもとに立ち返った(悔い改めた)人は誰でも赦す
- 【憐み深さ(mercy)】
- キリスト教(聖書)の神は、一人でも多くの人が神のもとに立ち返ってくれることを待ち望んでいる
- キリスト教(聖書)の神は、罪人に対して非常に憐み深いお方である(イエスを信じ悔い改めれば、どんな罪でも赦される)
子なる神(イエス)が100%神であるかどうかについて、聖書には「イエス=神」とはっきりと記した箇所が少なくとも7か所あります。 20それらは以下の通り。
- ヨハネの福音書1章1節
- ヨハネの福音書1章18節
- ヨハネの福音書20章28節
- ローマ人への手紙9章5節
- テトスへの手紙2章13節
- へブル人への手紙1章8節
- ペテロの手紙 第二1章1節
さらに、イエスは神のみがもつ性質をもっていることが、例えば、以下のことから分かります。21
- 【超越性】
- 天地万物が創造される前から存在している(コロサイ人への手紙1章15節)
- 【全能性】
- 嵐を鎮める(マタイの福音書8章26-27節)
- パンと魚を増やす(マタイの福音書14章19-21節)
- 水をワインに変える(ヨハネの福音書2章1-11節)
- 死人を生き返らせる(マルコの福音書5章35-43節;ルカの福音書7章12-15節;ヨハネの福音書11章38-44節)
- 天地万物を創造した(ヨハネの福音書1章3節)
- 天地万物を支えている(へブル人への手紙1章3節)
- 【遍在性(復活後)】
- イエスを信じる者といつも共にいる(マタイの福音書28章20節)
- 【全知性】
- 人の心が分かる(マタイの福音書9章4節)
- 遠く離れた人の様子が分かる(ヨハネの福音書1章48節)
- 初めて会った人の生活状態が分かる(ヨハネの福音書4章16-18節)
- 未来が分かる(マタイの福音書16章21節;26章23、34節)
- 【義】
- 人を正しく裁く(テモテへの手紙第二4章8節)
- 【恵み深さ】
- 人の罪を赦す(マルコの福音書2章5-12節;コロサイ人への手紙3章13節)
聖霊なる神については下記の記事で詳しく取り扱いましたので、興味のある方はご参照ください。
聖霊のもつ神固有の性質(神性)としては、例えば以下があります。22
- 【全知性】
- 父なる神のことを知っている(全てのことを知っている)(コリント人への手紙第一2章10-11節)
- 【超越性】
- 永遠の昔から存在している (へブル人への手紙9章14節)
- 【遍在性】
- 聖霊から逃れられる場所はない(どこにでも存在する) (詩篇139篇7-10節)
また、聖霊を欺くことは神を欺くことと同じとみなされていて(使徒の働き5章1-4節)、聖霊は天地万物の創造にも関わっています(創世記1章2節;詩篇33篇6節;104篇30節)。
ここで、
と思われる方は少なくないと思います。
確かに、父なる神、子なる神、聖霊なる神が完全に独立した三つの存在であるならば、神が三人いることになりますので、神はただ一人という聖書の言葉と矛盾します。
しかしながら、
です。
ただ、
と三位一体説は主張しているのです。
という言い回しの中に(理解できるかどうかは別として、言葉の上での)矛盾はありません。
と思われるかもしれません。が、残念ながら、これが三位一体説はキリスト教の「神秘(mystery)」の一つと言われる所以です。
正直なところ、三位一体説で用いられる「本質」や「位格」という言葉が厳密に何を意味するのかというのは、誰にも完全には分かり得ないのです。
がここにあると言えるかもしれません。23
三位一体説の意義・重要性
前節では三位一体説が本当に聖書に基づいた教え・教理かどうかをみました。今節では、キリスト教および私たちの生活における三位一体説の意義・重要性を考えます。
その一つの理由は、
です。24
ここで問題になるのは神のもつ「愛」と「超越性」という性質。
当たり前の話ですが、「愛」が意味を成すためには、愛する側と愛される側の二つが必要です。
ですから、もし、神が三位一体の神でなければ、神が愛であるためには愛する対象が必要となってきます。つまり、天地万物が存在しなければ神は愛でありえないということになります(神の存在が天地万物の存在に依存する)。
ところがこれは、天地万物が存在していなくても神は存在し続けるという神の「超越性」と相反します。
しかし、
ことができます。
これは裏を返せば、三位一体の神は天地万物を創造する必要はなかったのにもかかわらず、天地万物を創造したことを意味します。
しかも、です。
神が造った人類は神に従順に仕えて神を褒め称えるどころか、神を無視したり否定したり憎んだり、自分勝手に生きるようになる訳です。そして、そんな身勝手な人間を救うために、最終的には、子なる神(イエス)自らが人となって地上に行き、人類の罪の罰を背負って十字架刑に架かる…。
つまり、
ということになります。
客観的に考えて、得るものよりも失うものの方が圧倒的に多いと思われることを三位一体なる神はあえて選択されたように思えます。
私だったら、現状に100%満足しているときに、自分が嫌われたり、死ぬと分かっていることをわざわざしようとは思いません。仮に、そうすることで、結果的に自分が有名になることが分かっているとしてもです。
でも、神はあえて自らが損をするような選択肢を選ばれた…。そこには損得勘定では説明のできない、見返りを期待しない「神の愛」が表れていると思います。
神が三位一体であるということは、私たちが神の愛をより深く味わい知ることができる機会を与えてくれると言えるでしょう。
キリスト教にとって、三位一体説が重要だと言えるもう一つの理由。
それは、
三位一体説というのは、前節で確認したように、(頭で理解できるかどうかは別として、少なくとも)聖書に基づいた教え・教理です。
しかしながら、キリスト教的にみて誤った教え(異端と呼ばれます)は、以下に再掲する三位一体説のどこかを否定するものがほとんどです。
父、子、聖霊という三つの異なる位格をもっていて、
それら三つはそれぞれ100%神である
例えば、「三位一体説の成り立ち」に出て来た様態論は「父、子、聖霊という三つの異なる位格をもつ」、特に「父、子、聖霊の三者は(天地万物に対する)働き・役割においては従属関係にある」という部分を否定します。
オリゲネスの従属説は「父、子、聖霊の三つがそれぞれ100%神である」こと、特に子と聖霊が永遠の昔から存在していること(超越性)を否定します。
養子論とアリウスの考え方・解釈は「父、子、聖霊の三つがそれぞれ100%神である」ことを否定します。
現代においても、キリスト教の異端・カルトの多くは三位一体説を否定しています。25
異端・カルトが三位一体説を否定したくなるのは、恐らくですが、三位一体説は人間の理性・論理で理解できないからだと思います。人間の頭でもっともらしい理由をつけて神のことを説明・理解しようとすると、三位一体説はどうしても邪魔になってくるのです。
これは裏を返せば、
と言うしかないと思います(逆に、三位一体説を否定する異端・カルトの教えは人間が作り出したものとも言える)。
ここに、私たちにとっての三位一体説の重要性がみてとれます。なぜなら、三位一体説を認めるということは、
- 三位一体の神は人間の理解を超えた存在であること
- 三位一体を教える聖書が神の言葉であること
を認めることと同じだからです。
そのためには、私たちが自分の知恵や知識、経験だけに頼ろうとするのではなく、神の前にへりくだって、神の知恵と力にすがろうとする姿勢が求められます。
自分には分からないこと、理解できないことがあったとしても、神と聖書(神の言葉)を信じ信頼して付き従おうとする姿勢が求められます。
三位一体の神に対するこのようなへりくだりと信頼の姿勢は、神・イエスを信じる者にとって非常に大切な姿勢・態度です。
三位一体説は、
そして、
と言えます。
まとめ
今回はキリスト教の「神秘(mystery)」の一つでもある下記の「三位一体説」について考えました。
父、子、聖霊という三つの異なる位格(いかく)をもっていて、
それら三つはそれぞれ100%神である
特に三位一体説の成り立ち(歴史的背景)を確認した上で、本当に聖書に基づいた教えなのか、またキリスト教および私たちの生活における意義・重要性を考えました。
三位一体説の原型が完成するのは西暦381年のコンスタンティノープル公会議において、イエスの死後から約350年が経っていました。しかし、その内容は決して後世の人たちが勝手に作り出したモノではありませんでした。
むしろ、
として三位一体説は確立していきました。
三位一体説が確かに聖書に基づいているかどうかについて、まず聖書には「神は唯一である」と書いてあることをみました。
そして、聖書内で父、子、聖霊の三者と天地万物がどのように関わっているかを見ていく中で、
ことを確認しました。別の言い方をすれば、
と言えます。
ここに(理解できるかどうかは別として)言葉の上での矛盾はありません。
最後に、三位一体説の意義・重要性については以下の二つをみました。
- キリスト教(聖書)の神が三位一体の神であるということは、神が神であるために必要不可欠
- 三位一体説は、ある宗教団体(の教え)がキリスト教的かどうかを見極める試金石の一つ
また、三位一体説を認めるということは、
- 三位一体の神は人間の理解を超えた存在であること
- 三位一体を教える聖書が神の言葉であること
を認めることと同じであること。
三位一体説を認めるためには、
- 自分の知恵や知識、経験だけに頼ろうとするのではなく、神の前にへりくだって、神の知恵と力にすがろうとする姿勢
- 自分には分からないこと、理解できないことがあったとしても、神と聖書(神の言葉)を信じ信頼して付き従おうとする姿勢
が非常に大事になってくるということもみました。
総じて、三位一体説は、
- 私たち人間に神の大きさを思い知らさせるもの
- それほどまでに大きな神が私たちをこの上なく愛していることを教えてくれるもの
- そんな神に対する畏敬の念と信頼感を深めさせてくれるもの
と言うことができると思います。
参考文献および注釈
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- Sproul, R. C. What Is the Trinity? Reformation Trust Publishing, 2011.
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- Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 256; Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 310; R. C. Sproul, What Is the Trinity? (Reformation Trust Publishing, 2011), 58–59.
- M. Turner and G. McFarlane, “TRINITY,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 1209.
- 「コンスタンティノープル公会議」について、詳細は例えば下記を参照。第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及世界大百科事典, “コンスタンティノープル公会議(コンスタンティノープルこうかいぎ)とは,” コトバンク, accessed February 2, 2019, https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1167772.
- なお、このときは今でいう「新約聖書」というものがまだ存在していませんでした。つまり、「聖書」とは何かが曖昧な時代でしたので、「聖書」に基づいたキリスト教の教えに関する混乱ぶりは想像に難くありません。このような混乱を収拾するために「新約聖書とは何か」についても議論が進められ、西洋では397年に「正典」が定められます。新約聖書の正典の成立について、興味のある方は例えば下記を参照。J. N. Birdsall, “CANON OF THE NEW TESTAMENT,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996).
- 詳細は下記を参照。G. L. Bray, “TRINITY,” ed. David F. Wright, Sinclair B. Ferguson, and J. I. Packer, New Dictionary of Theology (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, February 1988), 692.
- 様態論(modalism)について、興味のある方は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 304.
- 詳細な議論は下記を参照。ibid., 304–305.
- 詳細は下記を参照。ibid., 303.
- 詳細な説明は下記を参照。Sproul, What Is the Trinity?, 31–32.
- 詳細は下記を参照。Bray, “TRINITY,” 692–693; Grudem, Systematic Theology, 244–245.
- 詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 243.
- 詳細は下記を参照。ibid., 243–244.
- 詳細は下記を参照。ibid., 245–246.
- 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
- 詳細な説明は下記を参照。Sproul, What Is the Trinity?, 45–46.
- 詳細は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 248–255.
- Ibid., 249.
- Ibid.
- 詳しい説明は下記を参照。ibid., 249–252.
- この他にもテトスへの手紙1章3節に出て来る「救い主である神」と4節の「救い主キリスト・イエス」を併せて、「キリスト・イエス=神」とみることもできます。ibid., 543.
- 詳細は下記を参照。ibid., 547–548; John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 137–138.
- 詳細は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 160; Erickson, Christian Theology, 782–783.
- 詳細な解説は下記を参照。Frame, Salvation Belongs to the Lord, 35–36.
- 詳細は下記を参照。Bray, “TRINITY,” 693.
- 「異端」について興味のある方は、例えば下記を参照。“異端,” Wikipedia, January 27, 2019, accessed February 6, 2019, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%95%B0%E7%AB%AF&oldid=71443834.