世の終わりは既に始まっている!?―キリスト教(聖書)の語る終末とイエスの再臨―

令和生まれの人はもちろん、平成生まれの人も恐らく聞いた事がないと思いますが、私のような昭和生まれの人は「終末」「世紀末」と聞くとまず間違いなく「ノストラダムスの大予言」を思い浮かべると思います。

この「ノストラダムスの大予言」というものは、

16世紀のフランスの医師・占星術者であったノストラダムスの著書「予言集」に記されている「1999年の7の月に恐怖の大王が来るだろう」という個所を人類滅亡の予言と解釈するもの

です。1 が、皆さんご存知の通り、1999年7月は20年も前に過ぎ去り、未だに人類は滅亡しておりません。つまり、改めて言うまでもありませんが、

ノストラダムスの予言(の解釈)は的中しなかった!

ということになります。でも、当時もそうでしたが、誰しも

人類が滅亡する日は来るのかな…
地球や宇宙はいつか無くなってしまうのだろうか…
この世に終わりはあるのか?

といった疑問をもったことがあるのではないかと思います。

という訳で今回のテーマは「キリスト教(聖書)の語る終末」について。

中でも聖書は、

世の終わりにはイエス・キリストが再びこの世にやってくる(キリスト教用語で「キリストの再臨」と呼びます)

と教えていますので、イエス・キリストの再臨に焦点を当てながら話を進めるつもりです。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

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キリスト教(聖書)の語る終末

終末の目的・意味

聖書(キリスト教)の神はまず初めに天地万物を創造しました(創世記1章1節)。

時空も含めて何も存在していなかった「無」の状態から天地万物が創造された訳ですから、

この世には始まりがあった

と聖書は語っていることになります。

そして聖書は、

この世が終わる時(日)が来る

とも語ります。その日を聖書では

  • 「主(しゅ)の日」(アモス書5章18節;ヨエル書1章15節など)
  • 「主イエス・キリストの日」(コリント人への手紙第一1章8節)
  • 「主イエスの日」(コリント人への手紙第二1章13節)
  • 「人の子の日」(ルカの福音書17章24節)
  • 「神の日」(ペテロの手紙第二3章12節)

などといった表現を用いて表します。2

この世が「無」から始まったのであれば、世の終わりは全てが「無」に帰ると考えたくなるかもしれません。

しかしながら聖書は、この世が終わる時(日)が来た後も全てが「無」に帰ってしまうとは教えません。

代わりに聖書は、この世が終わる時(日)が来ると、

新しい天と新しい地において、イエス・キリストを信じる者が神と共に永遠に過ごす

と約束しています(黙示録21章1-4節)。ある意味、この世は終わらないのです。

じゃあ、なんで「世の終わり(終末)」という表現を使うんだ?紛らわしくない!?

という声が聞こえてきそうです。が、聖書がわざわざ「世の終わり」という表現を用いる理由は、神が天地万物を創造した後に何が起きたかを考えると見えてきます。

では、

神が天地万物を造った後に起きた出来事とは何か?

それは、

アダムとエバが神の言いつけを破って、禁断の木の実(善悪の知識の木の実)を食べてしまったという出来事

です(参照:創世記3章)。

そのために、「罪」と「死」がこの世に入り、この地(被造物)も呪われてしまったと聖書は語ります(創世記3章17-19節;ローマ人への手紙5章12節;8章19-22節)。

要するに、

今あるこの世の中は本来、神が想定していた世の中とは比べ物にならないほど悪いものになってしまった

という訳です。3しかし、

神は世の中をそのままの状態で放っておくことができなかった。

だから、

神はこの世の救世主(メシア)と呼ばれるイエスを遣わして(神自らが人となって)、悪くなってしまった世の中を本来の良い状態に戻そうとした

のです。これが聖書の語る「救い」です。3

ですから、聖書が「世の終わり」というとき、それは正確には

本来あるべき状態から比べ物にならないほど悪くなってしまった世の終わり

を指します。

そして、「本来あるべき状態から比べ物にならないほど悪くなってしまった世の終わり」には、「新しい天と新しい地において、イエス・キリストを信じる者が神と共に永遠に過ごす」ようになる。

言うなれば、

終末(世の終わり)が来ることで、新しい天地における神との新しい世が始まる。

ここに聖書の語る終末(世の終わり)の目的・意味があります。

終末の始まり(イエスの初臨)


前項では、

終末(世の終わり)が来ることで、新しい天地における神様との新しい世が始まる

ということをみました。では、

もっと具体的に「終末(世の終わり)」には何が起こるのか?

について、イエスがこの世に生まれる前に書かれた旧約聖書に終末(「終わりの日」「その日」)に関する以下のような預言が記されています。4

  • イスラエルは他民族からの圧迫や侵略、まやかしや巧言などによって様々な困難に直面する(エゼキエル書38章14-17節;ダニエル書10章14節;11章27-39節)
  • イスラエルは困難な状態から救い出され、彼らの敵は裁かれる(ダニエル書11章40節―12章3節;エゼキエル書39章)
  • この救いと裁きは最終的にイスラエルの指導者(救い主・メシア)がイスラエルの全ての敵に勝利することでもたらされる(創世記49章1節、8-12節;民数記24章14-19節;イザヤ書2章2-4節)
  • 多くの者がよみがえる(ダニエル書12章2節)
  • 神がイスラエルと新しい契約を結ぶ(エレミヤ書30章24節;31章31-34節)
  • 神が王国を打ち建て、ダビデの家系の王と共に支配する(ミカ書4章6-8節;ホセア書3章5節)
  • イスラエルに敵対した異邦人の中には救われる者もいる(エレミヤ書12章14-17節;48章47節;49章6、39節;比較:イザヤ書19章19-25節)

イエスが十字架刑で死んで、よみがえって、天に昇った後、イエスの弟子たちの手によって書かれた新約聖書においても終末(「終わりの日」「その日」)の預言が意味するところは変わりません。

ただし、旧約聖書と新約聖書において、終末に関する認識に関して決定的に異なることが一つあります。

それは、

イエスがこの世に最初に来たとき(キリスト教用語で「再臨」に対して「初臨」と呼びます)、終末に関する預言が成就し始めた

ということ。一言で言ってしまえば、

イエスが生まれた時が終末(世の終わり)の始まり

と言えることになります。そして、

イエスの宣教活動はもちろんのこと、十字架上での死と復活、そしてその後の教会の働きを通して、今もなお終末に関する預言が成就されている

のです。5

実際、先に挙げた終末に関する預言の中で、以下のような事柄がイエスによって成就されています。

  • 神は、ダビデの家系のヨセフの子として生まれたイエスにダビデの王位を与えた(マタイの福音書1章1-16節;ルカの福音書2章32-33節)
  • イエスは神の(王)国の到来を告げ知らせた(マルコの福音書1章15節;ルカの福音書11章20節;17勝20-21節)
  • 多くの人が死んでからよみがえることを示すため、イエスがまず最初によみがえった(コリント人への手紙第一15章20節)
  • イエスを仲介者として、神と人との間に新しい契約が結ばれた(ルカの福音書22章20節;へブル人への手紙8章6-13節;9章15節)
  • イエスを救い主(メシア)として、イスラエル人だけでなく異邦人にも救いがもたらされるようになった(ルカの福音書2章11節;ヨハネの福音書3章16-17節;使徒の働き11章15-18節)

また、イエス・キリストの弟子の一人ペテロは以下のように記しています。

キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。【ペテロの手紙第一1章20節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉466頁6

この箇所からペテロは、自分が生きている時代(イエスが生まれ、十字架で死んで復活して天に昇った時代)を「終わりの時」と認識していることが分かります(比較:へブル人への手紙1章2節;コリント人への手紙第一10章11節;ヨハネの手紙第一2章18節)。

が、しかし、です。

確かに、終末(世の終わり)に関する旧約聖書の預言の成就はイエスが生まれた時から既に始まっているのですが、

(新約聖書も含めた)聖書全体の終末に関する全ての預言が完全に成就されるには、イエスが再びやって来るのを待つ必要がある

と聖書は語ります。

イエス・キリストの再臨

再臨の特徴

Greek icon of Second Coming By Anonymous, Greece - http://ikona.orthodoxy.ru/icon.php?source=source36/53, Public Domain, Link

イエスが再びやって来る時に聖書全体の終末に関する全ての預言が完全に成就すると聖書は語ります。が、そもそものところ、

イエスが再びやって来るってどういうこと?どんな感じでやって来るの?

と思われている方は少なくないと思いますので、以下にイエス・キリストの再臨の特徴について記しておきます。7

  • 一人一人に見える形で、(天使などではなく)イエス本人がやって来る(ヨハネの福音書14章3節;使徒の働き1章11節;テサロニケ人への手紙第一4章16節)
  • 肉体をもってやって来る(目に見えない霊的な状態でやって来るのではない) (使徒の働き1章11節)
  • 人々が予想もしない時にやって来る(マタイの福音書24章43-51節;テサロニケ人への手紙第一5章2-3節;ペテロの手紙第二3章8-10節)
  • 偉大な力と栄光とともにやって来る(マタイの福音書24章30節;25章31節)

再臨の予兆・前兆・しるし

The Second Coming of Christ stained glass window at St. Matthew's German Evangelical Lutheran Church in Charleston, South Carolina, United States. By Cadetgray - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

さて、前節でみたように、

聖書全体の終末に関する預言が全て完全に成就されるには、イエスが再びやって来るのを待つ必要がある

のであれば、

一体いつイエスが再びやって来るのか?
イエスが再びやってくる前に、何らかの予兆・前兆・しるしはあるのか?

といったことが気になってくるところだと思います。

結論から言ってしまうと、残念ながら、

いつイエスが再びやって来るのかは誰にも分からないが、再臨の予兆・前兆・しるしといったものはある

と聖書は語ります。

イエス自身、次のように言っています。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。【マタイの福音書24章36-37節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉52頁

ここの「その日」は「人の子(イエス)の到来の日」、つまりイエスが再びやって来る日のことです。よって、

イエスが再びやって来る日(時)は、人間はもちろん天使や神の子イエスさえも知らず、父なる神だけが知っている

と言っています。

なお、「ノアの日」というのは、旧約聖書に出てくる「ノアの洪水」が起きた日のことです。その洪水が起きることはノアとその家族を除いて当時の誰も知らず、人々がいつもと変わらない生活をしていた時に洪水がやってきました(参照:マタイの福音書24章38-39節)。

そのノアの洪水の日と同じように、イエスが再びやって来る日は神以外、誰も知らないという訳です(比較:マタイの福音書24章44節;25章1-13節;マルコの福音書13章32-33節;ルカの福音書12章35-40節)。

ですから時折、ある団体・個人が

〇年〇月〇日に終末が来る!

と主張することがありますが、そのような主張はキリスト教的には間違っていると言うことになります。8

イエスが再びやって来る日時は神以外、誰にも分かりませんが、その予兆・前兆・しるしとしては以下のようなものが挙げられます。9

  • 聖書の語る救いのメッセージ(福音)が全世界に宣べ伝えられる(マタイの福音書24章14節;マルコの福音書13章10節)
  • これまでなかったような大きな苦難が到来する(マタイの福音書24章15-22節;マルコの福音書13章7-20;ルカの福音書21章20-24節節)
  • 偽(にせ)キリストたちや偽(にせ)預言者たちが現れ人々を惑わす(マタイの福音書24章23-24節;マルコの福音書13章21-22節;比較:ヨハネの手紙第一2章18-23節)
  • 天に「しるし」が現れる(マタイの福音書24章29-30節;マルコの福音書13章24-25節;ルカの福音書21章25-26節)10
  • サタン(悪魔)の働きによって「不法の者(滅びの子)」が現れ、様々な悪の力をもって人々を滅びに至らせようとする(テサロニケ人への手紙第二2章1-12節)
  • イスラエルが救われる(ローマ人への手紙11章25-29節)11

上記のような出来事・現象が起きてすぐにイエスがやってくるとは限りませんが、上記のような出来事・現象が起きない限りイエスが再びやってくる(この世が終わる)ことはないと聖書は語ります(マタイの福音書24章34節;マルコの福音書13章30節;ルカの福音書21章32節)。12

ここで鋭い読者の方は

ん?ということは、イエスがやって来るのはまだまだ先の話だな

と思われるかもしれません。

確かに、聖書のメッセージが全世界に宣べ伝えられたり、「イスラエル」が救われるといったことは、まだまだ時間がかかることのように思われます。このため、イエスの再臨もまた遠い先のことのように思えるかもしれません。

しかし、聖書は、

イエスがいつ再びやって来るのか分からない(まだまだ先かどうかも分からない)のだから、いつやって来てもいいように用心していなさい(神に忠実に日々過ごしなさい)

と勧めています(マタイの福音書24章43-51節;25章1-13節など)。

ですから、イエスが再びやって来るのはまだまだ先だと思って、のんびり(?)自分勝手に過ごすのは聖書の勧めている事と反することになります。

実際のところ、先に挙げた出来事・現象に関しては、表現の取り方・解釈の仕方によっては「天に現れるしるし」を除いて全ての出来事・現象はもう既に起きているとみることもできます(「天に現れるしるし」については、しるしが現れた直後にイエスが再臨すると解釈できますので、まだ現れている必要はありません)。13

いずれにしても、

イエスの再臨はまだまだ先だという自分なりの判断を過信するのではなく、イエスがいつやって来てもいいように、神に忠実に日々過ごすに越したことはない

と個人的には思います。

再臨に伴う出来事(復活と最後の審判)


本来あるべき状態から比べ物にならないほど悪くなってしまった世が、イエスの再臨によって完全に終わると聖書は語ります。

しかし、ただイエスがやって来るだけで世が終わる訳ではありません。イエスが再びやってきてから世が終わるまでに起こる出来事が幾つかあります。14

その一つが「復活(よみがえり)」です。15

パウロという人物が次のように書いている聖書個所があります。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。【コリント人への手紙第一15章52節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉352頁

ここで「終わりのラッパ」というのは、イエスが再びやって来る時に響き渡るラッパのことですので、「イエスの再臨」のことを指しています(参照:テサロニケ人への手紙第一4章16節;マタイの福音書24章31節)。

つまり、

イエスが再びやって来る時には朽ちることのない肉体をもって死者が復活する(よみがえる)

と言っています(比較:テサロニケ人への手紙第一4章16-17節)。

このときの「朽ちることのない肉体」というのは、復活したイエスがもっている「栄光に輝くからだ」と同じとされています(ピリピ人への手紙3章20-21節)。

なお、イエスが再臨するときに復活するのはイエスを信じる者だけでなく、イエスを信じない者もまた裁きを受けるために復活すると聖書は記しています(ヨハネの福音書5章27-29節;使徒の働き24章15節)。16

ここでいう「裁き」というのは、ミケランジェロの絵画などで有名な「最後の審判」のことです。

この最後の審判の審判者は他でもない再臨したイエスその人となります(マタイの福音書25章31-46節;使徒の働き10章42節;比較:ヨハネの福音書5章27節)。17

裁かれる対象は全ての人々。これには古今東西、イエスを信じる者と信じない者、全ての人々が含まれます(ローマ人への手紙14章10-12節;コリント人への手紙第二5章10節)。18

そして、その裁きは公平かつ真実で正しい裁きです(ペテロの手紙第一1章17節;ヨハネの黙示録19章2節)。19

ここで聖書(キリスト教)に詳しい人は

えっ?でも、ちょっと待って。イエスを信じる人は皆、永遠の命を得て、新しい天と新しい地で神様と一緒に暮らすんでしょ!?別に裁かれる必要はないんじゃないの?

と思われるかもしれません。

おっしゃる通り、

イエスを信じる人は皆、永遠の命を得て、新しい天と新しい地で神と一緒に暮らす

ことになります。その意味において、神の裁きはありません(ヨハネの福音書5章24節)。

では一体何について裁かれるのかというと、それは神から受ける報いについて。

そうなんです。聖書には死んだ後に神から受ける報いの程度に差があると理解できる個所があるのです。20

それは例えば下記の個所(比較:コリント人への手紙第一3章12-15節;マタイの福音書6章20-21節;25章14-30節;ルカの福音書6章22-23節;19章11-27節;ヨハネの黙示録22章12節)。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座に現れなければならないのです。【コリント人への手紙第二5章10節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉361頁

これを聞くと、まず間違いなくほとんどの人が

ええっ、「行いに応じて報いを受ける」ってことは、新しい天地で神様と暮らす時にも差があるってこと!?なんか楽しくなさそう…

と思われるのではないでしょうか。

確かに、私たちが生きているこの世の中においては、持っているモノの差によって、相手を羨んだり妬んだり憎んだりすることがあります。

しかしながら、新しい天地で神と共に暮らすときには、そのような負の感情は一切存在していません(比較:ヨハネの黙示録21章4節)。むしろ、

個々人が与えられているもので100%の満足と喜びを得ている

状態にあります。

従って、

たとえ最後の審判において受ける報いに差があったとしても、誰一人として他の人を羨んだり妬んだり憎んだりすることはない

ことになります(この世に生きている限りは想像しにくい感覚ですが…)。

別の見方をすれば、最後の審判における裁きは完全に正しいため、その結果(報いの程度の差)に誰一人として不平不満を言う者がいないと言えるかもしれません。

なお、イエスを信じる者に対する裁きの結果(報い)に差があるように、イエスを信じない者に対する裁きの結果(罰)にも差があると理解できる聖書個所が存在しています(例:マタイの福音書11章21-24節;ルカの福音書20章46-47節など)。21

程度の差があるとはいえ、その裁きの結果(罰)は以下のような表現で表されています。

  • 永遠の滅びという刑罰を受ける(テサロニケ人への手紙第二1章9節;比較:マタイの福音書25章46節)
  • 神の前から退けられる(テサロニケ人への手紙第二1章9節)
  • ゲヘナに投げ込まれる(マルコの福音書9章45、47節;比較:マルコの福音書9章43節)
  • ゲヘナの火に入る(マタイの福音書18章9節)
  • 永遠の火に入る(マタイの福音書25章41節;比較:マタイの福音書13章42節)
  • 神の憤りのぶどう酒を飲み、火と硫黄で苦しめられる(ヨハネの黙示録14章10-11節)
  • 火と硫黄の池に投げ込まれる(第二の死)(ヨハネの黙示録21章8節;比較:ヨハネの黙示録20章10、14節)

新しい天と地で神と共に永遠に過ごすのとは対照的に、

神の居ない場所(神との関係が断絶した状態)で苦しみながら永遠に過ごす

様子が垣間見れます。22

まとめ

今回のテーマは「キリスト教(聖書)の語る終末」でした。

キリスト教(聖書)の語る終末(世の終わり)というのは、この世が終わって全てが「無」に帰るという意味の世の終わりではありません。

確かに、終末(世の終わり)は来るのですが、それは全ての終わりではなく、むしろ

新しい天と新しい地における神との新しい世の始まり

をもたらすものです。

(旧約)聖書には終末に関する以下のような預言がなされています。

  • イスラエルは他民族からの圧迫や侵略、まやかしや巧言などによって様々な困難に直面する(エゼキエル書38章14-17節;ダニエル書10章14節;11章27-39節)
  • イスラエルは困難な状態から救い出され、彼らの敵は裁かれる(ダニエル書11章40節―12章3節;エゼキエル書39章)
  • この救いと裁きは最終的にイスラエルの指導者(救い主・メシア)がイスラエルの全ての敵に勝利することでもたらされる(創世記49章1節、8-12節;民数記24章14-19節;イザヤ書2章2-4節)
  • 多くの者がよみがえる(ダニエル書12章2節)
  • 神がイスラエルと新しい契約を結ぶ(エレミヤ書30章24節;31章31-34節)
  • 神が王国を打ち建て、ダビデの家系の王と共に支配する(ミカ書4章6-8節;ホセア書3章5節)
  • イスラエルに敵対した異邦人の中には救われる者もいる(エレミヤ書12章14-17節;48章47節;49章6、39節;比較:イザヤ書19章19-25節)

そして、終末に関するそれらの預言はイエス・キリストが誕生した時を起点に成就され始めています。ですから、

イエスが生まれた時が終末(世の終わり)の始まり

と言えます。

しかしながら、

終末に関する全ての預言が完全に成就されるには、イエスが再びやってくること(再臨)を待つ必要があります。

イエス・キリストの再臨の特徴としては、以下が挙げられます。

  • 一人一人に見える形で、(天使などではなく)イエス本人がやって来る(ヨハネの福音書14章3節;使徒の働き1章11節;テサロニケ人への手紙第一4章16節)
  • 肉体をもってやって来る(目に見えない霊的な状態でやって来るのではない) (使徒の働き1章11節)
  • 人々が予想もしない時にやって来る(マタイの福音書24章43-51節;テサロニケ人への手紙第一5章2-3節;ペテロの手紙第二3章8-10節)
  • 偉大な力と栄光とともにやって来る(マタイの福音書24章30節;25章31節)

また、再臨の予兆・前兆・しるしとしては、以下のようなものがあります。

  • 聖書の語る救いのメッセージ(福音)が全世界に宣べ伝えられる(マタイの福音書24章14節;マルコの福音書13章10節)
  • これまでなかったような大きな苦難が到来する(マタイの福音書24章15-22節;マルコの福音書13章7-20;ルカの福音書21章20-24節節)
  • 偽(にせ)キリストたちや偽(にせ)預言者たちが現れ人々を惑わす(マタイの福音書24章23-24節;マルコの福音書13章21-22節;比較:ヨハネの手紙第一2章18-23節)
  • 天に「しるし」が現れる(マタイの福音書24章29-30節;マルコの福音書13章24-25節;ルカの福音書21章25-26節)
  • サタン(悪魔)の働きによって「不法の者(滅びの子)」が現れ、様々な悪の力をもって人々を滅びに至らせようとする(テサロニケ人への手紙第二2章1-12節)
  • イスラエルが救われる(ローマ人への手紙11章25-29節)

イエスが再びやって来くるとき、

人々(死者)は復活して最終的な裁き(最後の審判)を受けます。

その最後の審判の審判者はイエス・キリストで(マタイの福音書25章31-46節;使徒の働き10章42節;比較:ヨハネの福音書5章27節)、その裁きは公平かつ真実で正しい裁きです(ペテロの手紙第一1章17節;ヨハネの黙示録19章2節)。

最後の審判によって、

人々は皆、善であれ悪であれ、それぞれの生前の行いに応じた報いを受けます(コリント人への手紙第二5章10節)。

そして、

イエスを信じて、その罪(神の望まないことを行ったこと)が赦されている人は皆、永遠の命を得て新しい天と新しい地で神と一緒に暮らす

ことになります。対して、

罪を犯しても、その罪が赦されていない人(イエスを信じていない人)は、神の居ない場所(神との関係が断絶した状態)で苦しみながら永遠に過ごす

ことになります。

キリスト教(聖書)の語る終末は本来あるべき状態から比べ物にならないほど悪くなってしまったこの世の終わり

を意味します。が、それはまた、

イエスを信じる者たちにとっては、新しい天地でイエスと同じ「栄光に輝くからだ」をもって神と共に永遠に過ごす世の始まり

を意味するもの、そして、聖書の語る「救い」の完成形でもあるのです。

聖書の語る救いについて、興味のある方は下記の記事もご覧ください。

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参考文献および注釈

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  • Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • Moo, Douglas J. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
  • “ノストラダムスの大予言.” Wikipedia, December 6, 2018. Accessed August 29, 2019. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%88%E8%A8%80&oldid=70866642.
  1. 詳細は下記を参照。“ノストラダムスの大予言,” Wikipedia, December 6, 2018, accessed August 29, 2019, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%88%E8%A8%80&oldid=70866642.
  2. 詳細は下記を参照。K. E. BROWER, “ESCHATOLOGY,” ed. T. D. Alexander and B. S. Rosner, New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, Ill.; Leicester, UK: InterVarsity, 2000), 460; R. J. BAUCKHAM, “ESCHATOLOGY,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 336.
  3. キリスト教(聖書)の語る「罪」について、興味のある方は下記の記事を参照ください。「人はみな罪人?キリスト教(聖書)の教える罪とは?―罪の定義と本質―」 「なぜ人は罪を犯す?生まれながらに罪人?原罪とは何?―罪の原因―」 「罪に程度や大小の違いはある?赦されない罪は?―罪の種類と結果―」
  4. 詳細は下記を参照。G. K. Beale, “ESCHATOLOGY,” ed. Ralph P. Martin and Peter H. Davids, Dictionary of the Later New Testament & Its Developments: A Compendium of Contemporary Biblical Scholarship (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, June 2010), 330–331.
  5. 詳細な説明は下記を参照。ibid., 331; BAUCKHAM, “ESCHATOLOGY,” 334; BROWER, “ESCHATOLOGY,” 461–462.
  6. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
  7. 詳細は下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 1090–1093.
  8. イエスの再臨の日時は神以外に誰も分からないことに関する詳細は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 1093–1094.
  9. 詳細は下記を参照。ibid., 1097–1099.
  10. 該当聖書個所には太陽や月や星などの天体に異変が起きることが記されています。これらと似た表現は旧約聖書にも出てきています(例:イザヤ書13章10節;エゼキエル書32章7節;ヨエル書2章10節など)。このことから、天の「しるし」を文字通りの天変地異として解釈するのではなく、都市の崩壊や政治的権力の失墜というように比喩的に解釈することもできます。詳細は下記参考文献の「ルカの福音書21章25-26節」の注解を参照。David E. Garland, Luke, ed. Clinton E. Arnold, The Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011); 他にも例えば下記を参照。R. T France, The Gospel of Matthew, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007), 920–923; James R. Edwards, The Gospel According to Mark, The Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002), 402–403.
  11. ここの「イスラエルが救われる」という意味は、「(イエスを信じるかどうかに関わらず無条件で)イスラエルが民族全員一人残らず救われる」という意味ではなく、「(イエスを信じる信仰によって)イスラエルが民族全体として救われる」となります。詳細な解説は下記参考文献の「ローマ人への手紙11章26a節の注解を参照。Douglas J. Moo, The Epistle to the Romans, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996); 他にも例えば下記を参照。C. E. B. Cranfield, A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to the Romans, Volume 2, International Critical Commentary (T&T Clark Ltd, 2004), 576–577; Joseph A. Fitzmyer, Romans : A New Translation with Introduction and Commentary, 2007 Edition., The Anchor Yale Bible (New Haven; London: Yale University Press, 2007), 623–624.
  12. 「世が終わる時のしるし」(マタイの福音書24章3節)について記されている福音書内の聖書個所(マタイの福音書24章;マルコの福音書13章;ルカの福音書21章)には紀元後70年に起こった「エルサレム崩壊」の預言も含まれていると考えるのが通説です。ただし、それらの該当聖書個所のどこが「エルサレム崩壊」預言に関するもので、どこが「世が終わる時のしるし」に関するものかについては学者の間でも意見が分かれます。従って、この記事でマタイの福音書24章、マルコの福音書13章、ルカの福音書21章の内容を参照しながら紹介している「予兆・前兆・しるし」が実際には世の終わりのものではなく、エルサレムの崩壊に関するものである可能性は否定できません。しかしながら、いずれにしても、ここで記した全ての現象・出来事が起きない限り、この世が終わらない(イエスが再臨しない)ことは確かです。
  13. 詳細な議論は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 1099–1105.
  14. 終末(イエスの再臨)に関連して、キリスト教用語で「千年王国(the millennium)」と呼ばれるものに関する議論がしばしばなされます。しかしながら、その見解は学者の間でも一様ではありませんので、この記事では取り扱いません。「千年王国」について興味のある方は、例えば、下記を参照ください。ibid., 1109–1139; Erickson, Christian Theology, 1105–1123; John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 300–313.
  15. 聖書が語る「復活(よみがえり)」について、興味のある方は下記の記事をご覧ください。「死んだイエスはよみがえった(復活した)のか?①―復活の特徴・性質―」
  16. 詳細な説明は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 1101.
  17. 詳細は下記を参照。ibid., 1102–1103.
  18. 人間だけでなく「罪を犯した御使いたち」(悪霊たち)も裁かれると聖書は語ります(ペテロの手紙第二2章4節;ユダの手紙6節;比較:ヨハネの黙示録20章10節;コリント人への手紙第一6章3節)。詳細な説明は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 1145–1146.
  19. 詳細は下記を参照。ibid., 1147.
  20. 最後の審判において、イエスを信じる者が受ける報いに程度の差があることについて、詳しい説明は下記を参照。ibid., 1144–1145.
  21. 詳細は下記を参照。ibid., 1143.
  22. 罪を犯し(神の望まないことを行い)、その罪が赦されていない人(イエスを信じていない人)に対する最終的な裁き(罰)について、興味のある人は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 1133–1138.
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